うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「ドストエフスキーって難しいの?」→「難しいけれど、難しさに着目しなくてOK」

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ブログ記事をいくつも書いているも通り、ドストエフスキーが好きだ。

他の古典小説は(探せばあるのだろうけれど)余り感想を見かけないのに対して、ドストエフスキーは特に探さなくても言及している人をちらほら見かけるので人気があるのだろうなと思う。

 

自分がドストエフスキーが好きな理由は単純で、とにかく面白いからだ。

読むたびに発見があって面白い。だから何度も読む。

その他の作家は、例えばドストエフスキーが傾倒しているゴーゴリは「鼻」と「外套」を読んだけれど忘れているし、トルストイやツルゲーネフも内容を忘れている部分が多い。チェーホフやショーロホフなど、有名でも読んだことがない作家が多々いる。

 

ネットでは、自分が好きなこと、興味を惹かれことだけを書いている。

漫画もゲームも小説もアニメもラノベもWeb小説も哲学も時事問題も、同じように心を惹かれて好きで書いたり考えたりすることが楽しい。心に思ったことを素直に書いているので、その気持ちが伝わると嬉しいと思っている。

 

どんな分野でも好きでいる期間が長くなると「その対象が本当に好きなのか、それともその知識を持っていることに価値を見出しているのか」という境目が怪しくなる。

後者が悪いことだとは思わないけれど、自分はそうなることは望んでいないので「興味がある・好きという自分の気持ちを一番大事にしよう」と思っている。

哲学は物の認識の仕方(世界観)という物差しを作る分野だから、他人が作ってくれた立派な物差しを用いたら別の発想が出来る、もっと別の角度からの物の見方が分かったり、二次元でしか見えなったものが三次元で見ることが出来ると思う時は遠慮なく用いればいいと思う。

ただ他人の物差しを借りていても測るのは自分だ、という姿勢を忘れないようにしたい。

 

創作の感想は「私」が語れ。|うさる|note

 

閑話休題。

自分がドストエフスキーに感じる難しさは、テーマにキリスト教(ロシア正教)が深く関わっているところだ。現代の日本の社会で宗教に関わらず生きていると、この部分は理解しづらい。

知識がない素養がない、ということももちろんあるが、それ以上に作内で登場人物がこだわっていることが実感しづらい。

例えば

「全ての人に罪があり、その罪を自分が背負う」

ということは頭では何となくわかっても、「原罪」という発想がそもそも体になじんでいない。

だから「全ての人を赦したいし、全ての人に赦されたい」というのも「何のこっちゃ」というのが正直なところだ。

 

でも例えば「白痴」でなぜイポリートがあんな自殺騒動を引き起こしたのか、ということについての他の登場人物たちの見方など読んでいて面白い。

こういう普遍的な物事や人の感情に対して、他人が抱く感想は、いつの時代も同じなんだなと思う。

 

「白痴」は他の箇所はすべてすっ飛ばして読んでも(イポリートの告白書とか。ごめん)恋愛小説として普通に面白くて萌える。何なら公爵のファンブックとして読んでもいいくらいだ。

公爵とアグラーヤの気持ちのすれ違いは、恋愛漫画で「ツンデレと素直すぎるさんは、だいたいこういう展開になるよな」という萌えの典型だ。

ナスターシャがアグラーヤに「公爵を幸せにしてあげて」と手紙を送り、それをアグラーヤが公爵に見せて「あいつがお前のことが好きなことがわかんねえのか」と激高するシーンなど恋愛モノとして最高だ。自分が公爵の立場になるのは、絶対にごめんだが。

 

ドストエフスキーの作品の登場人人物は、「急にどうした?」と思うくらい、極端から極端に突っ走るので読んでいて飽きない。

フェラポント神父もキリーロフも読んでいて面白いから好きだ。

www.saiusaruzzz.com

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ドストエフスキーの小説はなぜこんなに面白いのだろう。

よく見かける「小説を書く上で、読まれたいならこういうことをやってはいけない」ということを全てやっているのに。

ドストエフスキーの長編は、似たような登場人物が出てくる似たような話が、人にまったくわからせようという気のない話し方で延々と書かれている。

モームが言うようにその人物像は極端で、実際の人間とはかけ離れている。

プロットはがたがたで読みにくいし、端役みたいな登場人物が本筋に関係ない過去の話や朗読を突然始めたりする。(しかもすごく長い)

似たような登場人物が出てきて、毎度似たような話をする。(そして恐らく言いたいことも似たようなことだと思う)

思い浮かぶのは欠点ばかりなのに、なぜか無茶苦茶面白い。似たような話に思えるのに、それぞれの話はお互い似た部分がなく、比べられるものでもなく唯一無二のものだ。(略)

 こういう小説を読むと、「話の構造が」「人物像が」「女性の扱いが」「毎度似たようなことばかり」「終わっていない話があるじゃないか」とか言うのが虚しくなる。そのすべての欠点を兼ね備え、いいところはさほど思い浮かばないのに、なぜ面白いのか。

(モームが語る「ドストエフスキーが描く女性像は偏っている」について - うさるの厨二病な読書日記)

 

規格外なんだ、と思うしかない。

だから200年後の動画全盛期でコンテンツが溢れかえっている現代でも、違う国の人間が何度も繰り返し読んでしまうし、これからも読み続けられると思うのだ。

 

モームによると、そうとう自意識が強い人だったみたいだが、本人はこの状況を見たら喜ぶんだろうか。それとも「俺の書いたものの意味が何ひとつ分かっていねえ」と怒るのだろうか。

後者な気がするんだよなあ。(そこがいい)