「私だけに優しい、私だけを愛してくれる人」という、恋愛モノの相手役の究極の形である「自分を受け入れ愛してくれるが、他人に対しては受け入れがたい振る舞いをする相手」をどう考えるか。
恋愛モノにおいて、これは鬼門のテーマだ。
有名なところでは「花より男子」がこの点でつまづいており、批判をよく見かける。
「大蛇に嫁いだ娘」の感想記事で、「『自分を受け入れ愛してくれるが、他人に対しては受け入れがたい振る舞いをする相手』をどう考えるか」は、恋愛モノで鬼門のテーマだと書いた。
「探せば、納得のいく結論を出しているパターンもあると思う」と書いた直後、すぐに思いついた。(恋愛モノではないけど)
三作とも「罪を犯した男を女性がどう愛するか」というパターンで、結論も「女性が男の罪(贖罪・逃亡)に付き合う」で同じだ。
「男に罪を告白して償うことを求めて、その男の流刑地について行く(罪に付き合う)」ソーニャのパターンが、個人的には一番納得が出来る。
「男の罪悪感を、女性が受け入れることで払しょくされる」は、(属性としての)男にとって定型なのかなと思う。
少年漫画でもダイ大の「ヒュンケルーマァム」、鬼滅の「猗窩座ー恋雪」のようによく見かけるパターンだ。
恋愛の相手役が罪を犯している場合、罪悪(社会)と恋愛(個人)が対立している構図なので、「罪を犯した相手役」は社会では受け入れられない、もしくは受け入れられるために償い(改悛)をしなければならない。
この構図が変化する要因が何も描かれていないのに、恋愛も成就し社会からも受け入れられる(祝福される)と、第三者からは不自然に見える。
吉田修一の別作品「怒り」は、「愛する人が罪人だったらどうするか」をテーマとして扱っている。
テーマになるくらい「恋愛と社会が対立した時に人は葛藤する」からこそ、「私を愛してくれれば相手の罪は気にしないヒロイン」は、読み手の心に引っかかりを生みやすい。
そこまで考えて、「『自分を受け入れ愛してくれるが、他人に対しては受け入れがたい振る舞いをする相手』をどう考えるか」を、よく描いていた作家がいたような? とふと思った。
なぜ忘れていたのか。
初期のCLAMP作品は、このテーマが多かった。
「聖伝」の夜叉×阿修羅、乾闥婆×蘇摩、帝釈天×阿修羅王、「東京バビロン」の星史郎×昴流、「レイアース」のザガート×エメロード。「X」は途中までになってしまったが、草彅×譲刃がこのパターンになったのではと思う。
「好きな相手のために罪を犯す。そんな相手を許してはいけないと思いつつも好きという葛藤」がメインだった。そのため、結末は「心中メリバパターン」が多かった。
ザガート×エメロードに顕著だったが、「罪を許す側」も個人の範囲内でしか物事を考えていない、その割に「相手の罪悪も受け入れる」ところまでいかない、中途半端なところが個人的に余り好きではなかった。
「容疑者Xの献身」の靖子や「罪と罰」のソーニャのように好きだからこそ(靖子は好意ではなく、石神に罪を犯させてしまった罪悪感がモチベだが)一緒に贖罪する、もしくは「悪人」のように罪と向き合わずどこまでも社会から逃げる(完全に個人優先)、どちらかを選んで、結末もその決断を受けたものになっているほうもののほうがいい。
「罪悪を受け入れるのか、受け入れないのか、はっきり決断できないところが人間らしい」と言われればそうかなとも思うので、好みの問題だけど。
星史郎が苦手だった。懐かしい。