うさるの厨二病な読書日記

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【書評】立花隆「中核VS革マル」上下巻  思想集団の対立は、どのようにしてエスカレーションし続けるのか。

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立花隆の「中核VS革マル」上下巻を読み終わった。

 

有名な連合赤軍事件を始め、学生運動の話を見ていると多数の党派と思想が飛び交う。

「ブントって何?」「革共同って何?」ということが整理されて書かれている。

現代では理解しがたい、なぜあれほど苛烈な暴力が運動に持ち込まれたのか、その思想的背景や経緯、歴史も辿れる。

 

先日、読んだ「文化大革命 人民の歴史 1926‐1976」の中で、残酷なリンチ描写が出てきた。「恐ろしい時代だ」と思ったが、本書に出てくる殺し合い(としか言いようがない)の描写もすさまじい。

特に下巻は凄惨な暴力の応酬の描写が続き、被害状況も逐一書かれている。苦手な人は薄目で斜め読みしたほうがいいかもしれない。

巻末の抗争の年表を見るだけでぐったりしてしまう。

 

この本を読むまでは、連合赤軍事件はかなり極端な例だったと思っていたが、そうではないようだ。

「革命や資本主義社会の打倒、反革命(革命を目指さないとみなした仲間や他党派)打倒のためには暴力は肯定される」という暴力革命指向ははどの党にもあり、それを論理化して浸透させていた。

そういう背景から、生まれた事件だったのだ。

パワハラなどでも「組織的土壌があった」ことが問題視されるように、組織、さらにこの時代の思想そのものが構造的に機能していた、ということが原因として大きい。

連合赤軍以後、学生運動、労働運動が急速に衰退したのはそのためではないか、と思う。

 

「自分たちは今まで資本主義社会で生きてきたから、その価値観を内面化している。その内面を解体することで革命戦士として生まれ変われる」

という「共産主義化理論」に基づいて、「生まれ変わるために他者を援助すること」が総括だった。

「共産主義化理論」は、森恒夫が何かを基に考えたとんでも理論だと思っていたが、どうもこの時代、細部は違えど似たような考えが蔓延していたようだ。

 

「個人の内面の変革によって社会を変革する」

「社会を変えるためには、個人の内面を統制しなければならない」

「社会システムと個人の内面システムを同化させる」

この発想は日本の学生運動に限らず、モスクワ裁判や文革大革命などの本を読んでいてもしょっちゅう出てくる。

そもそもはマルクスの疎外論から始まっているようだけど、ソ連(レーニン?)が変形させたのかな? 後で時間があったら調べようと思う。 

 

この本では、特定の思想集団の中で言動(論理)がどのようにエスカレートして過激化していったか、そのエスカレートする段階でどういった論理によって正当化されたか、同じ考えを持つ人たちの中でどのようにその論理が共有されたか、ということが客観的に追える。

新左翼や学生運動の歴史という他に、思想というものの構造、思想集団の特性、どのようにその言動は過激化していくのか、問題点がとてもわかりやすい。

 

革マル派の暴力はこうした理論にちゃんと裏打ちされた暴力であるから、他党派の行使する暴力とはちがって、腐敗も荒廃もしのびよる余地がないのだと主張している。

(引用元:「中核VS革マル」上巻 立花隆 講談社 P169)

 

革マル派は「革命的暴力論」を唱え、自分たちの暴力は革命のためのものであるから正しいという理論づけを行う。

「彼は早稲田で死んだ。ー大学構内リンチ殺人事件の永遠ー」の著者樋田毅は、多くの党派で行われた暴力の肯定とその理論化にこそ問題があると考えていた、と述解している。

時代を支配する「革命のための暴力は正しいものだ」という理論に問題を見出していたのだ。

 

同じことを本書の中で、立花隆が指摘している。

カントがついに達した結論は、倫理は普遍的にあらねばならず、普遍的にあるためには、形式的でなければならないということだった。(略)

特定の個人あるいは特定の集団をとりだして、そこではそれ以外の人間集団におけるのとは別の倫理法則が成り立つなどということは、あってはならないということである。

普遍性を失った倫理は、倫理として存立できず、形式性を失った倫理命題、つまり特定の人間集団に特定の内容を命ずる、許す、禁ずるような倫理命題は、倫理たりえないということである。

(引用元:「中核VS革マル」上巻 立花隆 講談社 P174ーP175)

 

倫理は、ある集団には許されてある集団には許されない、というものではない。どの条件下の集団にも普遍的に適用されることを以て、倫理たりうる

倫理というコンセンサスがなくなれば、お互い相入れない正しさを主張するだけになる。「自分が正しく、相手は正しくない」ので、その言動はどんどんエスカレートしていく。

お互いに理解し合う共通認識を捨てた正しさの主張は、倫理でも論理でもなく信仰だ。

その信仰の行き着いた先が、連合赤軍による「仲間を革命戦士にするための総括援助」であり、革マル派と中核派の泥沼の殺し合いだった。

 

言動が過激になればなるほど、「信仰心」が弱い者は去っていき、強い者だけが残る。

読んでいてなるほどと思ったことは、ある一定程度まで信仰心が強くなってしまうと恐怖や痛みは、人を去らせるどころか信仰心を益々高めることにつながる、という指摘だ。

この段階になると、仲間が殺されたことで(抑圧されているという事実を以て)自分たちの正しさをさらに確信する。

「仮に思想が正しいとしても、暴力は嫌だ」「暴力をふるうことそのものが正しくないのではないか」という疑問を持つ人はいなくなってしまっているので、内部にはブレーキがない。

復讐という名目で相手に「正しい」暴力をふるう、という連環が完成する。

さらに「信仰心の弱い人」と「強い自分」を相対化することで、ますます信仰を強めていく。

こういう構図になっているのか、と読んでいるとわかりやすい。

 

著者の立花隆が、「執筆のために両派の資料に目を通していると、段々にその世界観に認識を乗っ取られていく」と述解する箇所がある。

いったんその枠組みを受け入れてしまうと、あとはどんなことが起きてもその枠組みに従って解釈できてしまうものである。(略)

実際、私が資料を読んでいるときでも、片方の側の資料だけを読みつづけていると、だんだんその説が迫真力をもって追って来たものである。

まして、それぞれの党派の人は、たいてい自分の党派の情勢しか目にしていなだろうし、相手の機関紙・誌を読んだとしても、それはデマであるという先入主をもって読むだろうから、自派の主張の正当性と真実性への信仰はいやましにますばかりであろう。

(引用元:「中核VS革マル」上巻 立花隆 講談社 P161/太字は引用者)

 

フラットに両方の思想を読んでいる外部者でさえ、どちらかの主張を読み続けているとその説を信じそうになってしまうのだ。

「自分以外の他者の認識が全てその世界観に基づいている」場合、人がその世界観に抗うことは難しい。

近親者が陰謀論にハマったなどの悩みをよく見かけるが、人の認識は脆く、簡単にハックされる。エコーチェンバーは、人間にとって恐ろしい効力を持つ。

他人がそうなった場合、個人の力で覆すことは難しい。自分がそうならないように気をつけるしかない。

 

そのために、こういった本で書かれた「ハマった人」を外部から眺めることが多少なりとも役に立つと思うのだ。

現代でも読まれて欲しい本だなと思う。

 

続き。

人を抑圧から解放するための思想が、簡単に人を抑圧するものになってしまうのは何故なのか。|うさる|note

 

 

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早稲田に、こんな歴史があったのか……。