カルト(というより、人を取り込む思想全般)について、自分が理解を深められたコンテンツを紹介したい。
オウム真理教関連
地下鉄サリン事件の実行犯の中で、唯一無期懲役となった林郁夫が書いた本。
この人は十代のころから宗教に関心が深く、元々は十年近く阿含宗の信徒だった。そこで悟りを得られなかったため、オウムに興味を持ち、オウムの修行のメソッドを見てこれならば悟りを得られるのではないかと思ったことが、入信のきっかけだ。
本書の中で林郁夫は犯行時の心境について、「自分以外の他人を『救うべき人』という概念でしか見ていなかった」と吐露している。
本書を読んでも「悟りを開いて、世の中で苦しんでいる人を救いたい」ということ以外に何ひとつ関心がない人、という印象がある。
生物兵器・化学兵器になりうる毒物の第一人者アンソニー・トゥーが、オウムが化学兵器を作った過程の解明のために、中川智正と交流した内容を書いた本。
トゥーは中川と接する前から「自分の役割はあくまで化学兵器が生成された過程の解明であって、オウムや麻原については触れない。中川の個人的な心情には立ち入らない」ということを決めていたようだ。
なので、中川がなぜオウムに入信したかということはわからない。
ただ不思議なことに、「個人的な心情には立ち入っていない」本書では、中川が他の信者をどう見ていたかが伝わって来るのに対して、「個人的な心情を述べている」林郁夫の本では、他の信者との関係性や人柄が伝わってくるような話はほぼ出てこない。
本書はサリン事件の実行犯に対する判決への疑問が書かれていたり、サリン事件の遺族である高橋シズヱさんが「オウムの危険性に薄々気づいていながら、放置していた警察を一番恨んでいる」と語るなど、「社会とカルトの関係」についても考えさせられる。
村上春樹がオウムの信者をインタビューした本。
有名な本だと思うが、入信の動機や事件に対する思いが多種多様なことが伝わってくる。
同じ村上春樹の著書である「1Q84」について、知り合いの某宗教団体の二世の人が「私たちのことを書いてくれた」と言っていたことが印象に残っている。
読んだのがかなり前なので、もう一度読み直したい本。
一番印象的だったのは、麻原とサリン事件の実行犯たちの裁判におけるやり取りだ。自分たちが信じたものはこんなものだったのか、という無念ややるせなさが伝わってきてどうにもやりきれなかった。
犯人たちのしたことは許されないことだし、加害者なのだから自業自得だ、自己判断だと言う向きもあるかもしれない。ただ宗教に限らず思想でも信条でも人間でも、自分が本当に信じたものを否定したり、縁を完全に断ち切るのは並み大抵のことではないと思う。そこにこの問題の難しさがあると感じる。
「魂の虜囚」というタイトルが重い。
その他のコンテンツ
タイトルの通り、「洗脳の手法」についてかなり詳細に書いてある。
カルトや宗教という枠を超えて、どんな団体、人でも「こういうことをしてきたら警戒したほうがいい」という学びが深かった。
「北九州監禁事件」のように個人が個人の支配下に入ってしまう場合も、だいたい似た(というかほぼ同じ)手法がとられる。松永太はそういう手法を研究した、みたいなことを(確か)言っていたと思った。
自分が見聞きしただけでも類似の事件をかなり目にするので、もしかしたらそういう手口を真似した模倣犯なのかもしれない。
執筆協力に紀藤弁護士の名前が載っていたような気がしたな、と思って調べたら、資料提供をしているらしい。Toshlが団体に所属していたころ揉めた、という話も、確かそんな話があったと今回思い出した。
アメリカは日本以上にカルトが社会問題化しているらしいが、これはモルモン教原理主義の本。
この本は実際にあったモルモン教から原理主義に転向した兄弟による義妹(犯人たちの弟の妻)とその子供の殺害事件がテーマになっている。
モルモン教原理主義は、妻子は家長である父親の持ち物であるという教義があり、妻と子供は父親に絶対服従でその指示に従わなければならない。また一夫多妻制をとっている。(原理主義のみであり、一般のモルモン教徒の人はこの教えに反対している。)
この教えの下、モルモン教原理主義のコミュニティでは女の子は父親の指示で結婚相手を決められる。
年の離れた男の第二夫人にされ、その相手から虐待を受けて家に戻ったら、父親から近親相姦を強いられるなどか読んでいるだけでキツいケースが出てくる。しんどくて途中で読めなくなった。
親と違う人格を持つのに信仰を強いられたり、信仰による影響を受けるのはキツイことだが、その最たる例だ。
「カルト集団と過激な信仰」の第一話で、「ネクセウム」という自己啓発団体の話。
この話で印象的だったのは、主人公の女性がなかなか脱会出来なかった理由として、自分が勧誘して入会した人に対する責任を感じていたことを上げていたことだ。
一度入会してしまうとその中で縁や交流が出来てしまう、また自分がきっかけとなって入った人もいるためなかなか抜けられなくなってしまう、という話は他の団体の話でも頻繁に出てくる。
一度信じた信仰なり思想なりの言動が積み重なると、自己の内部の問題としても対人的にも後に引けなくなってしまう。
自分の時間、気持ちの大部分を費やしてきたものを捨て去るのは言うほど簡単なことではないし、周りの人間関係まで出来上がっていれば、脱け出すのは並大抵のことではない。
この女性は、体に焼きゴテを押されて、ようやく脱会を決意する。
それほどショッキングな出来事がなければ、「おかしい」と思っても脱け出すことまではなかなか決意がつかないところに難しさを感じた。
他の話は粗筋を見ると子供への虐待を行っている団体が多いので腰が引けてしまっていたが、これを機に見てみようと思う。
新左翼・革マル派の話。
新左翼の中でも革マル派はカリスマ的なリーダーが唱えた論を主柱にしているので、より宗教との親和性が高く見えてしまう。(他のセクトがマシというわけではまったくないが)
早稲田の経営陣が革マル派と癒着していて、学内での暴力も黙認する状態が1990年代前半まで続いていたという話に驚いた。
まとめ
これらの本から学んだことから自分なりに考えた、人がカルトにハマる(過激思想や極端な考えのコミュニティに取り込まれる)過程は以下の通りだ。
①外の世界とのつながりを断ち切られる。
②同じ世界観の人間のみでコミュニティが形成されているため、認識を相対化できなくなる。
③相対化できないために、ひとつの認識が絶対化される。
④「絶対化された認識が是としたこと」は、世界観の外側から見たら「ありえない」「荒唐無稽だ。笑ってしまう」「無茶苦茶だ、理不尽だ」「なぜそんな残虐なことを」と思うことも人間はやるようになる。
②の地点に行ったら、個人の力で引き返すのは難しい。
どんなに優れた人でも、②の地点まで行けば遠からず④の状態になる。個々人の知性や能力はほとんど関係がない。(危機管理のためにそう思っておいたほうがいいと思う)
その入口である①のような環境に自分を誘い込むような人、団体、仕組みは少し距離を置いて付き合い方を考えたほうが良いと思う。
自分がSNSやレコメンド機能を便利だと思う反面危うさを感じるのは、自分から進んで①(自分の好むものしかない世界)に入っていく仕組みだからだ。
エコーチェンバーは②の状態なので、常に自分がその中にいないか気を付けていないといけない。
その世界観や認識の是非や善悪が問題なのではなく、認識を相対化できない世界を形成してしまうこと自体が問題だと思う。
歴史を見ると、社会全体、国全体が丸ごと②→④の状態になってしまうことも決して珍しくはない。
そうなったら個人の力ではどうすることも出来ないので、社会全体が①→②の状態にならないように、常に見ていなくてはいけない。
「常に見ている」にはどうすればいいか、と考えると、人を②→④の状態に誘い閉じ込める仕組みがどうなっているのかを、色々な事例から学んで考えていくしかないと思うのだ。