祖母の家にいると、常に誰かに見られているような気がした。
「それはね、『いないモノ』さまだよ」
僕の疑問に、祖母は答える。
「『いないモノ』さまはね、どんな小さな隙間にでもいる。蟻が這いこむような小さな隙間でもね。雨戸の戸袋の中に目を向けたらね、こっちを見ていたよ。『いないモノ』さまは、いつも私らを見ているんだ。見るためにいるからね」
「『いないモノ』さまは、それぞれの家にいるの?」
僕の質問に、祖母は答える。
「『いないモノ』さまは、一人しかいない」
「一人? 一人じゃ村のことを全部は見られないよね?」
「そんなことはない」
祖母は笑った。
「見えるよ。村の隙間は、全部つながっているから。見なきゃいけないものがある時、『いないモノ』さまは必ずいる。隙間から見ている。必ず」
「『見なきゃいけないもの』が分かるの?」
僕が首を傾げると、祖母は大きく口を開いた。口の中は真っ暗だった。
「分かるよ。お前だって分かるだろう? 何を見なくちゃいけないかさ。見なくちゃいけないものしか見ないだろう?」
祖母は顔の黒い隙間から、ケラケラと笑い声を発しながら言った。
大きく丸く開いた口の奥で、何か見慣れたモノが蠢いているのが見えた。
何かいる。
祖母ではないものが。
そいつが祖母の口の中で笑っている。
僕は祖母の首に布を巻いた。
祖母はそれでも笑っていた。
僕は祖母の首に巻き付けた布を引っ張った。
祖母の笑いは、それでも止まなかった。
僕は布をあらん限りの力で引っ張った。
笑い声が止んだ。
※※※
祖母の顔をもう一度見ると、顔は白く固く強張り、動いていなかった。笑い声も聞こえない。
ぽかんと開いた口は黒々とした穴ぼこのようで、その奥には何も見えなかった。
僕は祖母の太った体を持ち上げようとする。暗に相違して、体を持ち上げることが出来なかった。
困ったな。
僕は考える。
風呂場で作業をするつもりだったのに。
仕方がない。
僕は用意していたビニールシートを広げ、その上で作業をすることにした。
祖母の体を持ち上げることは出来なかったが、シートの上に転がすのは訳がなかった。
さてと。
と道具を手にしようとした時、僕はふと辺りを見回した。
誰かいる。
僕以外に誰かが。
そう思った瞬間に、全身が総毛立った。
台所につながる背後の引き戸を開ける。
台所はシンとしていた。
廊下にも出て、奥の寝室を開ける。
祖母の部屋を開ける。トイレを開ける。風呂場を開ける。
誰もいなかった。
僕はもう一度、居間に戻る。
祖母は口をぽかんと開けたまま、ビニールシートの上に横たわっていた。
僕は辺りを見回して、天井を見た。
小さな細い隙間が見える。
そうか、あそこから見ているのか。
僕はその小さな黒い隙間を睨む。
懐中電灯を持って来ると、押し入れの上段に上がり隅から屋根裏に上がった。
※※※
屋根裏は、埃だらけだった。
暗闇の中を懐中電灯で照らしても、人間どころか鼠すら見当たらない。
ここにいたんじゃなかったのか。
居間にいた時に見つけた隙間を探す。
下から灯りが漏れているので、すぐに見つかった。
屋根裏に上がると、四つん這いになってそろそろと隙間に近付き、ピタリと目を隙間に当てる。
隙間の場所は、ちょうど転がした祖母の体の真上だった。
驚愕で凍りついた白い顔、黒々と開いた口、口の端についた涎までよく見える。
ふと、祖母の体に誰かが近寄ってきた。
誰もいないはずの居間に、誰かいる。
僕の視界からは、入ってきた男の頭のてっぺんと背中の一部しか見えない。
その男は、僕が解体のために用意した道具を手に取って祖母の上にかがみこんだ。
何をしているんだ、こいつ?
おい、止めろ。
それは、僕がやろうとしていたことだ。
そいつは僕の声が聞こえたかのように、手を止めた。
男の姿が、視界から消える。
台所につながる引き戸が開く音がした後、また戻ってくる。
今度は廊下のほうへ消える。しばらくして、トイレや風呂場の扉を開ける音が微かに聞こえてくる。
僕は隙間から見える、ポカンと口を開けた祖母の姿をジッと見つめ続ける。
脇の下が汗でじっとりと濡れた。視界がどんどん狭まり、呼吸が浅く苦しくなっていく。
風呂場を見終わったら、あいつはこの隙間を見つけて、押し入れからここに上って来る。
早く。
僕は必死で考える。
早く別の隙間に行かないと。
僕は視界にある唯一の隙間に入り込んだ。
※※※
気が付くと、僕はポカンと開けられた祖母の口の中にいた。
歯の隙間から、こわごわと外を見る。
トイレと風呂場を確認し終えて戻ってきた男が、今まさに押し入れから天井に上ろうとしているところだった。
押し入れの中で両足がブラブラと揺れ、やがて屋根裏に吸い込まれるように消えていく。
助かった。
祖母の暗い口の中で胸を撫で下ろす。
だが、ホッとしたのも束の間だった。
この次は、どうなるんだっけ?
僕は記憶を反芻する。
薄暗い屋根裏で隙間を見つけて……そこから……。
僕は天井を見上げた。
丁度、真上に隙間があった。その隙間から、異様に血走り見開かれた眼球が僕の顔を見つめていた。
その目を見ているうちに、僕は突然笑いたくなった。
ケラケラケラ。
ケラケラケラ。
僕は、祖母の声にそっくりの笑いを祖母の口の中で発し続ける。
不意に眼球と僕の間に、人影が立ちふさがった。
人影は祖母の口の中を覗き込む
何かいる。
祖母ではないものが。
そいつが祖母の口の中で笑っている。
人影は、祖母の首の周りに布を巻きつけた。布を引き絞る腕に、徐々に力を込めていく。
締め付けられ、狭まっていく暗い隙間の中で、僕は狂ったように出口を探し求めた。
閉じられる寸前の細い隙間に血走った眼球を押し当てて、極限まで見開き外を見つめる。
世界が闇に閉ざされる寸前、僕の視界の中にいたのは。
僕がよく知っている男だった。