うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「現代批評理論のすべて」から、フェミニズム系批評を読み直した学びと感想。

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「現代批評理論のすべて」を読み直している。

以前は余り興味がわかなかったフェミニズム系批評、ジェンダー系批評、クィア批評、ポストコロニアル批評が、今回は面白く感じた。

初版が2006年なので、現在はこの地点から話が進んでいると思うが、とりあえず本書に掲載されている「フェミニズム系批評」について読んだ感想と学びを書きたい。

 

①女として読み、女として書く

冒頭にフェミニズム批評の定義が書かれている。

中立や普遍の名の下に行われてきた文学作品の解釈や価値評価は、実は男性中心主義的なものに過ぎなかった。

この認識に基づいた文学批評の方法を、フェミニズム批評と呼ぶ。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P92)

 

フェミニズム批評は、最初はこのようなものとして誕生した。

表題が何故「フェミニズム批評」なのか不思議だったが、内容を読むとその系譜は徐々に枝分かれしていき、フェミニズム批評の内部から、批判や異論を含め様々な考えが生まれる。

その枝分かれした考え方を全て含めるために「系」をつけたのでは、と考えた。

 

1970年に出たケイト・ミレットの「性の政治学」は、女性解放運動の理念であったラディカル・フェミニズムを学問的理論へと応用し、フェミニズム批評の嚆矢となった。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P92/太字は引用者

 

フェミニズム批評は、男性が書いた文学の中の女性への表現などを批判するものとして始まる。

これは後にフェミニズム内で批判的な言説で語られるようになった。

「性の政治学」は、後にフェミニストから、いわば叩き台的に批判されるようになる。

ミレットの体系が、男性作家の女性蔑視的な表象を批判するばかり(略)であり、女性の作家的伝統には一瞥もくれていない点は、明らかに後進の批評家に課題を残すことになった。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P93)

 

この後、「男性作家の手による作品への女性視点の批判」から「男性優位の社会構造の中で生まれた、女性による女性の文学の系譜や女性の言葉について」に対象が移っていく。

この段階において、フェミニストたちが「女」として文学表象を読み解く営みは、男権社会への対抗言説を紡いだ女性作家の伝統を見出す作業へと向けられた。

つまり、ここで研究対象となった女性作家は(略)まず各々が生きた社会の中に男性優位の権力構造を看破した「読者」として位置づけられたのである。(略)

批評家は(略)自らの女性意識をも、その「伝統」の一端に位置づけることになる。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P94/太字は引用者)

 

既存の女性作家たちを「男性優位の権力構造を読むもの、批評するもの」という側面で捉え、その系譜に連なる者として批評者である自分も捉える。

「作品(作家)」と「批評者(読者・自分)」を「対峙」という構図ではなく、「男社会を読む者、批評する者」という連なりの構図で見る。

作品と読者のスタンスをずらす(スタンス自体も複数ある)という発想が面白い。

 

この段階では、「書き手と読み手」の対峙よりも「男性優位社会を読み解く女性」という枠組みで女性作家の作品を見る試みがとられる。

このように、女性作家に共通の表現形式や感受性を分析しつつ、女性読者*1の連帯を模索した批評のうち最も代表的なものは、ガイノクリティシズムである。

女性自身の視点から、女性の文学的創造力を検証した(後略)

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P94)

 

ただ一方でこういった傾向は

先にも触れたモイは、しかし、女性作家中心のガイノクリティシズムは、作家の性アイデンティティを強調し過ぎるとともに、テクストの意味と作家の女性としての経験を単純に結びつける傾向にあるとして、それを批判している。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P94)

 

「女性であること」に注目し過ぎると、「女性ならではの作品だ」「女性だからこういうことを書くのだ」という風に作品の細部を、そして作品全体の意味を「作家が女性であること」に簡単に帰着させてしまう危険が生まれる。それは「作家は男性であることが一般的なのに」ということを含意することにもつながる。

その反面、性別に限らず作者の属性や置かれた環境をまったく鑑みないことは、その作品の存在の意味や隠された声を見落とすことになる。

 

作者の性アイデンティティと作品の関係をどのように捉えるかというテーマは、「女性であること/そうではないこと」という性別の単純な二項化への疑問、また他の属性の枠組みから考えた場合はどう考えるのか、という批判を受けながら方向性が多岐に分かれていく。

 

②女とは誰か?

「文学作品の解釈や価値評価は、実は男性中心主義的なものに過ぎなかった」という前提に基づき、女として書かれた作品を女として読み、女としてその意味を書く。

それがフェミニズム批評である、とすると書く主体、読む主体である「女」とは誰であるか? 議論の焦点はここに移っていく。

 

「女とは誰か?」という議論に先立ち、「ここまでのフェミニズム批評は、『男性中心主義的なものにすぎなかった枠組み』の中に、女性作家を追加したに過ぎないのではないか」という批判が出てくる。

マルクス主義者のリリアン・ロビンソン(略)が不満を呈したのは、フェミニズム批評が、女性作家を追加して文学キャノンを拡げた以上には何の機能も果たしていないかに見える点だ。(略)

ポイントはむしろ、価値のカテゴリーそのものであるキャノンという概念こそが、虚偽意識として否定されねばならないということだった。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評②女とは誰か?」新田啓子 新書館 P96/太字は引用者

 

以前、「日本短編漫画傑作集」と銘を打っているのに少女漫画が入っておらず、選者も男ばかりなのはおかしいのではという議論があった。

小学館「日本短編漫画傑作集」に少女漫画は入らない!?編集者のツイートが炎上した理由 | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン

 

「性別が明記されてない場合は『男の』という含意がある」ことは、「中立や普遍の名の下に行われてきた文学作品の解釈や価値評価は、実は男性中心主義的なものに過ぎなかった」というフェミニズム批評の前提を正に証明している。

 

ロビンソンはそこからさらに踏み込み、そもそも既存の権威から選ばれた「傑作」という価値カテゴリー自体が虚偽であり、「選ばれた傑作」という「正しさ」によって今度は別のものが抑圧される、という問題を提示している。

ロビンソンは、それは自分たち(女性)が抑圧されてきた構図の再生産であり、その枠組みに「加担することになるのではないか」という疑義を出した、と自分には読めた。

 

フェミニズム批評は、「中立や普遍の名の下に行われてきた文学作品の解釈や価値評価は、実は男性中心主義的なものに過ぎなかった」という既存の枠組みを否定しつつ、その枠組みに評価体系を頼らざるえないという壁にぶつかる。

ロビンソンの言葉を借りるなら、「既存の価値体系であるキャノンという概念を批判しながら、そこに入ることに価値を見出す」というねじれた状態だ。

 

この矛盾の他に、もうひとつ課題が持ち上がる。

この種の(ロビンソンによる)価値転覆的な批判は、フェミニズムという政治的/学問的な立場が一般的認知を獲得するやいなや、早くも全面的に直面した問題であった。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評②女とは誰か?」新田啓子 新書館 P96/太字、括弧内は引用者)

 

自分の中に構築された創作への純粋な価値評価と、政治的な、例えば「どれほど優れていても男性作家の作品ばかりを認めるわけにはいかない、認めること自体が『男性中心主義的』な作品へのこれまでの評価体系を助長することになる」という判断が対立した時に、どちらを取るか。

批評の枠内だけで言うならば、そういう対立なり葛藤が生じることになる。

 

ロビンソンの指摘は、「批評」という特定の価値基準の枠組みを前提としている行動と、「フェミニズム」というその枠組み自体に疑義を訴える理念の矛盾を明らかにした。「フェミニズム批評」という言葉自体が元々その矛盾を明示している言葉なのだ。

そう考えると、常識的に結びつけられているフェミニズム批評と理論とは、実は相いれない関係であったのではないかという疑念が持ち上がる。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評②女とは誰か?」新田啓子 新書館 P97/太字、括弧内は引用者)

 

①既存の社会構築のされ方を批判しつつ、「批評」という既存社会においてある種「権威化したこと」を行う。→評価基準はその社会における既存のものを使わざるえない。

②理念的なものと、自分の中の批評という価値基準(既存社会の枠組みによって構築されたもの)が相反する。

 

この二つの矛盾なり葛藤なりを生み出すものは、突き詰めれば「自分を抑圧する社会によって自分自身が構築されているという矛盾」だ。既存社会の構築に疑問を向けることは、その社会によって構成された自分に疑問を向けることにつながっていく。*2

フェミニズム批評はこの後、「女が書き、女が読む」というが、この「女」とは誰か? 何者なのか? という方向へ向かうのは、そういう意味では必然だった。

 

「女とは何者か」という話は、まず「わたし=女」は誤謬であるという話から始まる。

フェミニズム批評が本当に、無視・誤読・ステレオタイプ化から差異というカテゴリーを救い出そうとするものならば、必要なのは、ラディカル・フェミニズムの段階では中心的であった自己語りモード、「個人的なこと」を築き上げるための経験を統合する「全き自我」への信頼を疑うことであろう。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評②女とは誰か?」新田啓子 新書館 P97/太字は引用者)

 

批評をするにおいて、「わたし」のみから「女性」を作ることに自制的であること、もしくは「批評者である『わたし』は何者か」という自意識、ないし自省は常に必要だと感じる。*3

 

「わたしとは何者か?」という自省なく、「わたし」=女とすることはなぜ、「フェミニズム批評」においては避けなければならないのか。

それは「わたし」=女とした場合に、例えば長く「主流フェミニズム」とされた「西欧白人中産階級異性愛中心主義」から、こぼれ落ちる「女」がいるからだろう。

八八年に出版されるやいなや、大論争に包まれたガヤトリ・スピヴァクの「サバルタンは語ることができるのか」(略)多くの批評家たちを戸惑わせた。

しかしスピヴァクは、サバルタンなる主体は彼女たち自身の声を持ち得ないと言っているのではなく(略)サバルタンが議論される場それ自体が、あらかじめ西欧ローカルな「政治的自己表現」という理念によって制限されていることを問題にしたのである。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評②女とは誰か?」新田啓子 新書館 P99/太字は引用者)

 

「わたし=属性ではなく、わたしは(その属性に帰属する)わたしでしかない」

「批評という客観的な立位置を取るためには、属性の全てを代表してはならない」という前提は、ポストコロニアル批評*4やクィア批評を横断する形で顕在化する。

 

属性が同じでも、そのアイデンティティをどのように形成しているかは千差万別であるため、批評者は自己のアイデンティティの位置づけに常に自覚的であることを求められる。

ここでも「批評者=『わたし』は何者なのか」という問題に、話は収れんする。

「私は女性という性アイデンティティを持つこと」は重要であり尊重される。

だが、同じ属性を持つ人でも様々であるから、同じ属性であっても同じ立ち位置になるとは限らない、むしろ「同じ属性内でも異なるアイデンティティの形成の仕方をしている人を想定すること」が、批評者としては前提となる。

「私語り」とならないためには、作品が「他者である」ということをくっきり浮かび上がらせて対峙、もしくは連帯することが重要である。

そのためには「他者ではないから私である」ということに自覚的であることがとても重要なのだ。

 

まとめ

「フェミニズム批評」は、その言葉自体が宿命的に多くの矛盾をはらんでいる。

「中立や普遍の名の下に行われてきた文学作品の解釈や価値評価は、実は男性中心主義的なものに過ぎなかった」(P92)ということを批判しながら、それに代わる価値体系がまだ存在しないがゆえに、ある程度既存の価値体系に頼らざるえない。

②「批評」という「数あるものの中から選ぶ、評価する」行為自体が、既存社会においてある種の権威性を帯びている。

③自分自身の「批評の評価基準」も既存の社会の中で構築されているために、その評価基準と「性別に基づく理念」がぶつかる。

④自分たちを「無視・誤読・ステレオタイプ化から差異というカテゴリーを救い出そうとするもの」(P97)だからこそ、自分たちが他の属性を「無視する」わけにはいかないという規範を持つ。

自分がこの文章を読んで気付いただけでも、こういった矛盾ないし葛藤を抱えている。

抑圧の内部で抑圧と戦いながら、自分自身の抑圧性と常に戦わなければならない。

そしてそのために、「女とは何なのか」*5「自分とは何なのか」を問い続ける。

困難と苦難の道のりだ。

 

だが驚いたのは、その困難や苦難を避けるのではなく挑むように、ミレットやガイノクリティシズムへの批判、ロビンソンの指摘など、多くの矛盾への指摘なり疑問なり課題なりが内部から批判や異論として出てくるところだ。

 

特定の思想の健全さを測る要件は、内部からどれくらい異論や批判が出てくるか、それが許容されるかだと思っている。思想の中に内省の目があるかだ。

思想は雑多で多様な思考を包摂しながら広がっていくものであり、信仰は思考を一元化することを目指す。内省の目がなく批判や異論を包摂できず排除すれば、思想ではなく信仰になってしまう。

哲学の歴史を追うと、最初は支持(師事)していた思想を後に批判したり、異論を提出したり、頻繁に対立し、そこから新たな考え方が生まれたりする。

思想は内省を重ねて枠組みが広がり変遷していく生き物のようなものだと思う。

 

「批評」の中の一ジャンルとしては大きな興味は持てなかったが、これほど多くの矛盾を抱えながら、内部で批判や内省を繰り返してその矛盾を乗り越えようとする道のりには素直に敬意が湧いた。

 

*1:引用者注:この「読者」の中には、男性優位の構造を作品を通して読み解いた「女性作家」も含まれる

*2:社会のシステムに疑義を持ち、その構造を解体するために、その社会で構築された人間の内面を解体する。連合赤軍事件の共産主義化理論がどういう過程を経て、どんな結果を生み出したかを見ればこの理論を他人に強いる恐ろしさはすぐにわかる。ただ他人ではなく自分自身について考えるぶんには構わないと思う。自分が今回読んだ四つの批評に通底する、「批評者(自分)とは何者か」という課題はとても興味深く読んだ。

*3:「感想」は自分にとっての意味を自分のために書くものなので、自分の経験を「女性」に統合して「自分語り」をするのもまったく問題ないと思う。

*4:サティと呼ばれる寡婦殉死の風習を、西欧の人権主義のコードで捉えることは「白人男性が褐色の女性を救済する」という文脈に回収されるのではないか、また逆に女性が自殺することは妊娠出産という話に回収されがちな伝統的な発想に抗った独立運動の武装闘争に関わったインドの女性の話などが例としてあげられており、色々と考えさせられた

*5:続くジェンダー系批評やクィア批評ではここが主要な問題として取り上げられる