*記事の性質上、ネタバレがあります。
「陰謀の夜」と「巨人の火の釜」は、エピソードの型が同じ。
この話は因果関係でストーリーを組むのではなく、神話体系や童話集のように立体的に話を捉えたほうがわかるのではないか。
そう思ったのは、「死のルーン・陰謀の夜」関連のエピソードについて考えた時に、話の型が「火の巨人のエピソード」とまったく同じことに気付いたことがきっかけだ。
「『①神様』が自分を『②滅ぼせるもの』をなくそうとするが、なくすことが出来なかったために封じて、それを『③部下』に見張らせる。しかし見張りの隙をついて滅ぼせるものが『④盗まれた』ため、『⑤神様』は『⑥殺されて』しまう」
この筋の①から⑥の要素を取り出して、「死のルーン・陰謀の夜関連(以下『陰』)」「火の巨人のエピソード(以下『火』)」に当てはめてみる。
①神様→「陰」マリカ、「火」マリカ
②滅ぼせるもの→「陰」死のルーン、「火」釜の火
③見張り→「陰」マリケス、「火」監視者(火の僧兵)
④盗人→「陰」ラニ、「火」アダン
⑤殺される神様→「陰」ゴドウィン、「火」黄金樹
⑥殺人者→「陰」黒き刃、「火」メリナ
世界各地で発見される、何の接点もない物語の共通項を見出す批評は、「原型批評」と呼ばれる。
二つの物語に共通する粗筋を「原型」、粗筋の中で入れ替え可能な要素(例:②滅ぼせるものである『死のルーン』と『釜の火』)の関係を「連合関係」と呼ぶ。
「つながりがないこと」が重要なのでは。
「陰謀の夜」のエピソードや登場人物と「巨人の火」のエピソードや登場人物は、一見つながりがありそうに見える。
だがよくよく調べると、まったく関係がない。細い糸をたどって、「(並列的な)関係があるのではないか」と考えるとすぐに行き詰まる。
「(並列的には何も関係はないが)同じ型を持つことによって、立体的、重層的な関係があるのではないか」と考えたほうが、「エルデンリング」という物語全体の作りを見てもしっくりくる。*1
「陰謀の夜」と「巨人の火」という同じ型の二つのエピソードは、「独立していて接点がないこと」が大事なのではないか。
「同じゲームの中で、原型が同じなのに接点がないものがある」ということは、「エルデンリング」の各エピソードは「ストーリー全体を、因果で結ばれた並行したもの」として見るのではなく、「関係のないポイントでそれぞれ起こっている話が、背景によってつながっているように見えるもの」であることを示していると考えた。
「黄金律」というシステムを守り、成長させるために全ての事象が起こっていると考えるとわかりやすい。
この物語は、それだけで永遠に連環し続ける完全な自律システム(黄金律=エルデンリング)を作る過程の話だ。
このシステムは、自分が完成するための不確定要素を次々とはじいていく。そうすることで、より完結性の高いシステムを目指す性質を備えている。(「マリカ=ラダゴン」という人物を設定して、黄金律の自律性を仮託している)
キャラや出来事などの具体的な事象が軸ではなく、黄金律というシステムを中心に話が動いている。「黄金律の完成を目指すためなら、ストーリー内ではどんなことでもあり」という話なのだ。
「黄金樹の歴史」を、システムの完成という目的を優先させる「視座」*2で見てみる。
「黄金律」というシステムを完成させるという視点で見た、「エルデンリング」の歴史。
ラダゴンがレナラと結婚したのは、魔術を黄金樹(システム)に取り込むためだ。
赤髪のラダゴンはカーリアのレナラの夫として魔術を修め、女王マリカの夫として祈祷を修めたという。英雄は完全たるを目指したのだ。(ラダゴンの肖像)
「具体的な人物の出来事」として読むと、愛情のもつれのように見えるが、黄金律というルール設定を優先させて読むと「魔術を取り込んだあとに、信仰を取り込み、より完全な(世界の)システムを目指した」となる。
マリカは、システムを強くするために、「力こそ王の故よ!」と豪語するゴッドフレイを内部に取り込む。
しかしシステムが確立し安定した後は、ゴッドフレイや坩堝・混種・しろがね人などの「秩序なき力」は過剰すぎて逆に不安定さをもたらす。
そのため、「穢れ」という設定を施して外に追い出す。
黄金樹のシステムは、システムの中で誤作動を起こしそうな要素を、用がなくなると自動的に次々と放逐することでより完成形を目指す。
ただ不安定な要素を取り除くだけでは、不確定要素が突然出現した時に対処が出来ない。黄金律は「永遠の都」の失敗を踏まえて、作成されている。だから制御できる範囲での不確定要素も取り込む。
黄金律にあえて取り込まれた不確定要素が、「古竜信仰」だ。
「古竜」は「人間の姿になることが出来る」など、本来は混種や坩堝と同じ「秩序なき力」だ。
「ランサクスはフォルサクスの姉であり、人の姿に化け、古竜信仰の司祭として騎士たちと交わったという」(ランサクスの薙刀)
坩堝や混種たちを追放して、古竜信仰は内に取り込むのは理屈に合わない。坩堝や混種の「力」は穢れと確定したから忌まれたのではなく、その時は不都合だったため穢れとして追い出されたのだ。(だからゴッドフレイも、必要が生じると呼び戻される)
古竜たちは坩堝や混種と同じように「秩序なき力」を持つが、その時はその力を必要とされたために、便宜的に取り入れられた。
黄金律は、「システムが生き延びるために、細部は枝葉のように都合よく扱う」ように徹底している。
システム面から見た黄金樹時代の時系列まとめ
・レナラ(魔術)を取りこむ。→取り込み終わった後は放逐。
・ゴッドフレイ(力)を取り込む。→システムの安定に支障が出そうなために放逐。
・黄金樹(システム)を燃やせる釜の火が邪魔になる。→火を消すことは出来ないために封じて見張りをつける。
・システムを止める死のルーンが邪魔になる。→死のルーンを消滅させることは出来ないために封じて見張りをつける。
・不確定要素に備えるため、あえて「古竜信仰」を取り入れる。
・不安定要素であるミケラを外に出す。(物語上はミケラが朱の腐敗に無力なことに失望し黄金律から出て行くが、システム面から見た場合はバグに近い扱い)
・「陰謀の夜」というバグが起きる。
・対処しきれなくなり、一回システムそのものを壊す。(マリカがエルデンリングを破壊)
・デミゴットが誰も修復できないため、褪せ人を呼び戻す。
「大いなる意志」という開発者の開発事業が本筋。
黄金律は本来、トライ&エラーを繰り返し、永遠に連環し続けることが可能なシステム「完全律」を目指すものだ。
その中のエラー(ゲーム内で起こるイベント)の数々を視認する「視座の揺らぎ」を無くした場合にあらわになる、「効率化を目指す無味乾燥な作業」こそがこの話の本筋では、と思う。
旧くなった黄金樹システムを作り直すノーマルエンドと完全律の修復ルーンのエンドが、黄金律(大いなる意志)が想定したエンドなのだと思う。
「現黄金律の不完全は、即ち視座の揺らぎであった。人のごとき心持つ神など不要であり、律の瑕疵であったのだ」(完全律の修復ルーン)
律のシミュレーションを通して得られた結果から、さらに高次の次元に行く「完全律の修復ルーンエンド」は、「システムから見ためでたしめでたし」だ。
まとめ:システムとその開発者が冷たく無慈悲であるからこそ、一人一人の意志と思いが輝く。
「エルデンリング」はゲーム内ストーリーやフレーバーテキストを追っていくと、ひとつひとつのエピソード同士には、つながりがほとんどない。
「黄金律に関係があるか」「黄金律には関係ないか(律の外に出たか)」で大きく分類される。
聖樹ミケラとマレニアの話、モーグウィン王朝、火山館などは、他のストーリーと背景ではつながっているが、それ以外は関わりがない。
ライカードやモーグウィンは、大ルーンを持っているがメインのストーリーにはほぼ関わらないし、エピソードの外にいる他のキャラは(ギデオンを除いて)存在にすら触れない。「黄金律」の外に出ているために、「律の中で起こるストーリーやキャラ」には関係がないからだ。
逆にモーゴットは忌み角を持って生まれながら、
「その刃は、彼が忌避し封じ込めた呪われた血の変容した様である」(モーゴットの呪剣)
徹底して呪いを封じ込めたために、黄金樹システム(メインストーリー)の中に残れたのではないかと思う。
「物語」として見ると、風習や精神論の話に見えるが、そうではなく
「呪いや忌みがあるかないかで、そのシステムの中に残れるか残れないか、という厳然たるルールが存在する。その強固なルールに守られたシステムの絶対性こそが、エルデンリングというストーリーの要であり、そのシステムの動きに合わせてイベントやキャラは動くのではないか」
「エルデンリング」は恐らくこういう話ではないかと思う。
冷たく無慈悲なシステムに縛られた身でなお、律に従う者も抗う者も「視座の揺らぎ」があり(フィアやブライヴの抗いの姿は、涙なしには見られない)個々のキャラの思いが絶対的なシステムを揺るがし、誤差を生むところ、その誤差こそがストーリーを最も大きく動かすところがこの話で一番好きなところだ。
余談:システムに従うことを自分で選んだなら、心を殺してでも徹底して従わなければならないというクソ真面目なキャラが好き。
「黄金樹のシステムの絶対性」は色々な箇所に表れている。
例えば調香師だったロロは、なぜ「忌み潰し」になったのか。
「かつて高名な調香師であったロロは、忌み潰しの悪夢のような任に尽くすため、香薬を飲み、自らの心を壊したという」(忌み潰しのロロの遺灰)
「忌み潰しになるために自らの心を壊した」ということは復讐や嫌悪、もしくは功利的な理由でなったとは考えづらい。
想像だが、トリシャと同じようにロロや他の調香師も穢れの治療をしていたのではと思う。
「かつて癒やし手と呼ばれ混種や忌み子、あらゆる穢れの治療を志した。そして、それが破れた後、彼らの死の付き添いとなった。その最期が、せめて苦痛なき安楽であるように。それは死衾のはじまりにも似ている」(調香師トリシャの遺灰)
「結局誰かが引き受けなければならない役目だから、自分が心を壊して引き受けた」という解釈なので、ロロが好きで使っている。
他にもマリケスやモーゴットのように、訳がわからないほど矛盾しているシステムの中で訳がわからないまま背負わされたものでも、責任を果たそうとするクソ真面目なタイプが好きだ。
まあルールやシステムガン無視で好き勝手に妄想して楽しそうに生きているモーグも好きだけど。