先日、はてブで「ブログはオワコン(意訳)」という記事があがっていた。
以前「はてなはオワコン」記事をどこかで読んだような……気のせいか?
まあ人のことは自分がとやかく言うことではないので、きっかけはおいておいて「ブログはオワコンか?」という話に絞って話したい。
「ブログはオワコンなのか」という問いに答える前に、「オワコン」とは何かを考えたい。
自分が考える「オワコン」とは、「時代の方向性と合っていないために、大きな展望は見込めないもの」だ。
「オワコン」で(大きな展望が見込めなくと)も、ごく少数の愛好者が細々とその特性を維持すればいい。
という意見もあるが、「少数の愛好者に向けて、細々とその特性を維持する」という特性はブログとは相反している。
自分が「ブログがオワコンだ」と言われた時に「だろうな」と思うのは、ブログは他のコンテンツと違い、オワコンになった時にオワコンになる特性を持っているからだ。禅問答のようだが。
ブログは基本的には「開かれてなんぼ」のメディアだ。機能や作りが、そう指向している。
①読み手側:興味の方向性が、記事の内容>書いている人間になるようになっている。
②書き手側:読む人の層がどういうものかは問わず、なるべく多くの人に読まれることを目指す。
こういう特性を持っていて、例えば同じ長文メディアでも、noteとは指向や特性が違う。
ひと言で言えば、書き手側も読み手側も属人性をほとんど追及されない。(個人で追及する人はいるだろうが、ここではメディアの作りや方向性の話)
これに対してTwitterやnoteは「(ブログよりはという意味だが、特にnoteは)閉じることを指向するメディア」である。
noteはミュートやブロック機能はないが、基本的には自分が選んで「つながった人」以外のものはほぼ目にしない。(「目にしないこと」を可能にする機能が備わっている)
「人基準でキューレーションすることがデフォルトであり、推奨されている」のだ。
これだけ情報が溢れている時代に読み手側(情報を取得する側)に立つと、「情報をいかに取得するか」よりも「いかに選ぶか、どのように取得を制限するか」のほうが重要になる。情報を処理する能力には限界があるから、出来れば自分に必要、もしくは自分がそれなりに楽しめるとわかっているものを手早く取得したい。
「誰が書いたかわからない真偽不明な情報、ないし自分が楽しめるかわからないもの(しかも読む手間もかかる)」の需要はなくなっていく。
以前は(結果的につまらなかったとしても)「もしかしたら面白いかもしれない」という可能性に価値があった。
そういう時代から、「『もしかしたら』は、可能性ではなくリスクであり無価値、どころかマイナスでしかない」という変化があるのではと思う。
そんなリスクは背負わなくとも、既に「自分が楽しめる」と信頼できるコンテンツは山ほどある。
またそのリスクの背負い方も、ランダムに見て回らなくとも、ランキングや有名人のおススメ、知人や友人と共有できるもの、話題になっているものなど「よりリスクの少ない」判断基準が豊富にある。
自分が受け取り手に立った時も、こういう判断が働く。
また、発信者側としても(とにかく有名になりたい、稼ぎたいという人以外は)「いつ、誰に、どういう風に読まれるか」をまったくコントロール出来ないことはリスクになる。
SNSのブロック機能、noteのマガジン機能や有料機能など、ある程度「読まれ方」をコントロールできる機能があるほうが、書き手としても「時代に即している」と思える。
「まったく見も知らない人の文章を何の気なしに読んだら、共感したり心を打たれて、夢中になって読んでしまった。そして一時の面白さのみが価値だと思って、見知らぬ人間同士のまま去っていく」
自分はブログのこういうところがとても好きだ。こういうものだからブログが好きなのだ。
だが「特に何も優れた能力があるわけでもない人間が書いた長文に、見も知らぬ人が『その内容のみをもって』読む価値を見出してくれる」
これは、ある一定の時代の不自由さの上で成り立っていた夢物語だったのかもしれない、とも思う。
自分がブログを書き始めたのは、一度ハマると寝ても覚めても、飯を食う時間ももったいなくらいそのコンテンツ(今なら「エルデンリング」)のことばかりを考えてしまう自分のような人に読んで欲しかったからだ。
「エルデンリング」で「陰謀の夜」と「巨人の火の釜」のエピソードの原型が同じとか、ロロがなぜ忌み潰しになったかなんていう話は、99.9%の人が興味がないだろう。
プレイした人でさえ(何なら『エルデンリング』が好きな人*1でさえ)どうでもいい人がほとんどだと思う。
それでも自分は興味があるから、4500文字かけて語りたいのだ。
自分にとって「自分が興味がある話題についての自分の考えを、同じくらい興味がある人に聞いてもらえる」ことは奇跡だ。
話した、書いたその一瞬だけでは成り立たない。長い時間がかかる。
自分にとってブログは、読まれるかどうかもわからない自分の考えを、時間をかけて石板に刻みつけて、埋めたり沈めたりするものだった。
書いたものを深い地の底、海の底に沈め続けて、その底にいつか誰かが来てくれることを願うしかない。
何年後かに、誰かが見つけてくれるのではないか。読んでくれたら何と言うだろうか。そんなことを夢見ながら、「時間の力を借りて、読まれる可能性を高めて奇跡を起こすもの」だった。
「自分が興味があることについて、考えを話せること、聞いてもらえることは当たり前な人」から見れば、それは奇跡でも何でもないのだろう。「夢が終わったら(PVが下がったら、稼げなくなったら、飽きたら)終わり」。そういう人もいると思う。*2
長々と文章を書いて沈めることは、時代に即さない。
オワコンだから、もう読まれない。
それはわかる。そうかもしれない。
でも、だから何だ。
それでも書いて埋めて願うしかない。
それしか方法がないのだから。
自分にとって、自分が本当に好きなこと、本当に興味があること、本当に話したいこと、本当に考えていることに同じくらい興味を持つ人に、自分が考えていることを見つけてもらう奇跡は、ここにしかない。
だから書くのだ。見つけてもらえるまで。
まあ見つけてもらったらもらったで、「こいつ、何もわかってねえな」と言われそうだけどね。
ロロは絶対にいい人だと思うんだよ。(まだ言う)