実家の兄ちゃんが貸してくれた知念実希人の「硝子の塔の殺人」を読んでいる。
物語が始まってすぐに、投薬方法の特許を持ち、莫大な資産を築いた登場人物が「私は綾辻行人になりたかったんだ」(P38)というセリフを言う。
自分は「他の誰かになりたい」と思ったことがないので、この言葉に微妙な引っかかりを覚えた。
「(誰かになりたいと思う)私」が絶対的に存在するものではなく仮説的なものでは、というしち面倒臭い話はおいておいて、その人になってしまったら、作品を読者として読めなくなる。
綾辻行人になったら「館シリーズ」を読み手として読む楽しさを味わえないし、我孫子武丸になったら「かまいたちの夜」の恐ろしさは何かを考える楽しさがない。クリスティーになったら「そして誰もいなくなった」の事件と犯人を細かく検証する楽しさがなくなってしまう。
自分が本当に面白いと思う作品を読む、読み手としての楽しさを手放したくない。その作品の読者であることが楽しく幸せなのだ。
ミステリーの中で自分に最も面白さを与えてくれる作品は、「解決したように見えて、読み終わった後も悪夢から脱出できていないような違和感」があるものだ。その違和感があると、「こう見えているが実はこうなのでは」とずっと考えていられる。
「時計館」や「かまいたち」や「そして誰もいなくなった」を読み終わったあとも、「解決したように見えて、もっと恐ろしいことが隠されているのではないか」と妄想し続ける「読者の自分」でいたい。
上記のセリフは「綾辻行人のような作品が書きたい」よりは、「新本格というジャンルの先駆者になりたかった」という意味かなとも思った。
ただ、もしそうであれば「綾辻行人の立場になりたかった」や「綾辻行人のようになりたかった」というセリフになりそうだ。
ゲームの「SIREN」で、登場人物の一人である宮田が双子の兄の牧野に、「それでも俺はあなたになりたかった」というシーンがある。
この時の宮田のセリフは「村の暗部を担わされているから、求道師として崇められる牧野が羨ましかった」という自分との比較から出てきたようには思えない。
これまでの人生でずっと見続けている夢に手を伸ばすような、憧れよりもっと強い思いを感じる。
「あの人になりたかった」という言葉は、「なれないこと」を前提としながら、なれた可能性を夢見ている。
「自分のあり得た可能性を、他人の中に見る」という感覚は、自分にはよくわからない。
よくわからないからこそ心に残ったのだと思う。
(余談)
カーの代表作は自分は「三つの棺」ではと思うけれど、「火刑法廷」人気あるな。