前回書いたこの記事で、「日本軍の指導者に共通していたもの」について考えたが、書き終えたあとどうもしっくりこない。
そんなときに黄金頭さんの記事のこの箇所を読んで「おおっ」と声が出た。
アイヒマンが定年まで仕事をして、「退職しよう」といったところで、それはもう手遅れなくらい死んで死んで死んでいるのではないか。人間の弱さや怠惰さ、惰性、無気力を甘く見ているんじゃないのか。
おれが弱さや怠惰、惰性、無気力の体現者としてそれを言う。おれも簡単に殺せるなら、殺し続けることができるかもしれない。それで飯が食えるなら、それが日常になるだろう。そういうタイプだ。
(引用元:「非暴力服従主義宣言 」- 関内関外日記/太字は引用者)
そう、自分は「日本軍の指導者は状況を把握して考えることが面倒臭かったから、惰性で戦争をしていたのではないか」と言いたかったのだ。
最初の目論見が崩れた後に、その後の状況を把握して、その認識に基づいて物事を考え直して、そして決断して、変化した状況の責任を取る。
そういうことを考えるととてつもなく面倒くさくなってしまい、「今の状況が何となく続いて、そのうちどうにかなってくれればいい」という気持ちで、何も考えず怠惰にすごしていたのではないか。
司令官だった田中新一は変化した状況について考えるのも、その状況に適応するのも面倒くさかった。今の状況がどれほど悲惨でも、状況が変化して自分がそれに合わせる手間を考えるよりははるかにましだった。
だから長期的なことは何も考えずに、眼前に現れた現実だけに反射のように対応するだけになる。
「戦史の教訓に基づき、悲惨な時ほど強硬に押さねばならない。こちらが苦しい時は向こうも苦しい。だから押すのだ」
部下にはこういう威勢のいい面を見せて、とりあえず「考えている態」「何かしている態」をする。
部下は部下で「何を言ってやがるんだ」と内心馬鹿にしながらも、意見を言うと面倒くさいことになるので何も言わない。何も言わなければ責任を取る必要もない。
完全な推測だけれど、現在のロシアのプーチンの周辺もこれに近い状況なのではと思っている。
始めるときは誰でもモチベーションが高い。
感情が動いて、エネルギーは満ち満ちている。
だが人はどんな刺激に慣れるし、刺激がなくなると段々やる気がなくなってくる。
自分個人のこと(趣味など)ならば、自分が飽きたからと止められる。しかし戦争はそうはいかない。
状況を調べ整理して考え決断して、その決断に基づいて様々な物事を動かし、相手と交渉しなければならない。
そのひとつひとつに全てエネルギーがいる。そのエネルギーがなければ人は「現状維持がそのまま続けばいい」という惰性に陥いる。
人にとって一番の省エネは、何も考えずルーティンをこなすことだ。
それが戦争だろうが慣れると日常のルーティンになる。
ましてや自分は指揮する側で、戦場を直接見ていないのであれば罪悪感というエネルギーも働かないので、その惰性に流される。
自分が「ビルマ 絶望の戦場」を見て一番恐ろしいと思ったのは、ビルマ司令部で起こったことやその空気感、この中にいる人たちの発想は、普通のものだと思ったことだ。
自分もビルマの司令官の立場にいたら、現実を認識して考えることが面倒くさくて状況に流されながら
「戦史の教訓に基づき、悲惨な時ほど強硬に押さねばならない。こちらが苦しい時は向こうも苦しい。だから押すのだ」
部下や兵士の前ではこう言うのではないだろうか。
「俺は考えている。責任を果そうとしている」と部下と自分自身を騙すために。
もし参謀だったら、「あいつ、何を言っているんだ、馬鹿じゃないか」と内心笑いながら、何も言わないのではないか。
「自分はわかっているけれど、面倒臭いから言わないだけだ」と思いながら。
ビルマ司令部の人間たちは、始める時は勢いがいいがちょっとうまくいかないとすぐに飽きてしまう、責任を取ったり状況の変化についていくのが面倒くさい、眼に見えない出来事は想像できず、自分を取り囲む「場」の論理にすぐに流されてしまう。
「現実」をしっかり認識して考えて判断する、という「事態を自分で判断し、起こったことの責任を持つ、ということを継続し続けるエネルギー」がそれほどない、そういうごく普通の人たちだと思うのだ。
ごく普通の人間一人に、巨大な権力が集中してしまうと、とんでもない機能不全が起こる。
「状況の変化に何となく流される惰性」によって、人がどんどん死に続ける。
もちろん、個人ではとても高潔な人も状況に流されない人もいる。(「ビルマ 絶望の戦場」にも出てくる。)
ただ全体的な物事については、「人は惰性で、人を殺し続けることが出来る。それくらい怠惰で、状況に流されやすいものだ」ということをデフォルトにして考えたほうが、悲惨な出来事を防ぐことが出来るのではと思った。
「文化大革命」でも、最初は人を殴ることに躊躇いを覚えていた少女が、二、三度殴るうちに何も思わなくなった、と述懐する箇所が出てくる。
人は状況の生き物だ、とつくづく思う。