うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「フェミニズム系批評」から学んだフェミニズムの歴史まとめ

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「現代批評理論のすべて」の「フェミニズム系批評」の歴史は、フェミニズムそのものの歴史とも大きく重なっている、またフェミニズム以外の思想から大きな影響を受けたり考え方を援用しているので、流れをまとめてみた。

*自分が理解した限りのことを書いているので、より詳しく知りたいかたは自身で調べたり実際に本を読むことをお勧めします。

 

第二波フェミニズムの祖

・ボーヴォワール(1908-1986)

第二波フェミニズムの祖。

唯物論的フェミニズムが主柱であり「身体は状況である」とした。

現在では構築主義(バトラーなどポスト構造主義フェミニズムがもたらした、男女というカテゴリー自体の疑義)の観点から批判もあるが、代表作「第二の性」(1949)はフェミニズム必読の書と言われている。

 

「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」

自分がフェミニズムに抱いている印象は、ボーヴォワールのこの言葉の印象が強い。

男に所有される、疎外される、従属する、また男と対立する、批判する存在としてのみの「女」ではない、主体的になる過程で、初めて「女という主体」になる。

「女」は男の相対的存在ではない。絶対的主体的な存在なのだ。

「女になる」とは、自己葛藤からの自己変革であり自己実現なのだ、とそう思っている。

と言いつつ、「第二の性」はちゃんと読んだことがないので読もうと思って調べたら、値段が高騰していた。うちの母親は若かりしころ、ボーヴォワールに傾倒していたので、「まだ持っているか」と聞いたら「整理しちゃった」ということ。がっくり。

 

ラディカル・フェミニズムの始祖

・ミレット(1934-2017)

ラディカル・フェミニズムの始祖。

「性の政治学」の中で、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを掲げる。

しかし、男性作家への批判のみに偏ったその主張は、直後から女性作家の中に潜む女性の視点を重視するガイノクリティシズムからの批判を浴び、「中産階級異性愛白人女性」としての枠組みが、第三世界及びクィアの女性に対する抑圧として働いているという批判の対象となる。

後世では「フェミニズムが乗り越える批判対象」(モイ)としての意義が大きい。

 

「フェミニズム系批評」を読むと、相当色々な角度から批判されているようで若干気の毒になる。

逆に言うと、この人の思想の問題点や批判がそのままフェミニズムの発展や広がりの歴史になっている。「叩き台的に批判されるようになる」(P93)のもある意味凄いことだ。

 

・リッチ(1929-2012)

ミレットと並ぶラディカル・フェミニズムの始祖。

「シスターフッド」「レズビアン連続体」「強制的異性愛」など、生み出した概念は今日も受け継がれている。

 

*欧州でのフェミニズムは、この後フレンチフェミニズムとイギリスの経験重視・リアリズム中心の英米フェミニズム文学研究に分かれていく

さらにフレンチフェミニズムには、ボーヴォワール(唯物論的フェミニズム)の流れを汲む平等派と差異派に分かれる。

平等派は男女の平等性を、差異派は男女の違いによる女性の特異性に注目する派だと理解した。言葉の領域でいえば、「翻訳で男女の言語の違いをなくそう」という動きが平等派、後に出てくるシクスーのように「女性の実感から生まれた女性の思想を体現する言語を生み出そう」とする動きが差異派だと思う。

 

フレンチフェミニズムの代表三人

・イリガライ(1930-)

フレンチフェミニズム差異派を代表する三人のうちの一人。

精神分析と脱構築を駆使した性的差異のポリティクスを理論的基盤として、フロイト・ラカンの精神分析における男性中心主義を批判した。

イリガライは、母性や母娘関係など、生殖的な身体に礎を置く(略)そこが本質主義的・ユートピア主義的などと批判を受ける。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「イリガライ」小澤英美 新書館 P204/太字は引用者)

 

フロイト・ラカンの精神分析の理論が男性的であるという論を展開しているので、後に身体によって性差を分けることに反対する「構築主義」のバトラーによって批判されいる。

「女性は女性として語る言語を持たない」というのは、面白いなと思う。

同じフレンチフェミニズムの代表であるシクスーが「エクリチュール・フェミニン」という概念を生み出したように、男優位の社会で話されてきた言語は女性のものではなく、主体としての女性を語り得るものではない、という考えはなるほどと思った。

ポストコロニアルで、支配国の言語は使うべきか使わないべきかという問題が論争されているのと似ている。(これも人によって考え方が様々に分かれている)

ラカン(中期)が言うように、人がもし言語で構成された象徴界で生きているのなら、言語の使い方はとても大事な問題だ。

 

・シクスー(1937-)

フレンチフェミニズムを代表する著述家。

シクスーはテクスチュアリティとセクシュアリティとの関係を重視し、男性言語に支配された世界を破壊するものとして、女性言語の構築すなわち「エクリチュール・フェミニン」(女性的エクリチュール)を掲げる。(略)

既存の言語はリビドー的で文化的、つまり男性的なエコノミーに管理されており、女性は自身の肉体をテキストの上に刻み、乳という白いインクで書くことでより新しい言語を創造すべきだという主張がなされる。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「シクスー」小澤英美 新書館 P216/太字は引用者)

 

既存の支配体系を打破するために新しい言語を創設しよう、というのは荒唐無稽なようでいて的を射ている。

人間は言語によって概念を区切って世界を理解し、思考するからだ。だから民族を支配しようとするときに「同化政策」が取られる。

大塚英志の「彼女たちの連合赤軍」では、連合赤軍の女性兵士たちの悲劇のひとつとして、新左翼言語を女性解放の言語と思い、指導者層である男と言葉が通じ合うと勘違いしてしまった点にあるのでは、と指摘している。(赤軍派も革命左派も、信じられないくらい保守的な男女差別がまかり通っていた)

「自分のための言語」はとても大切だ。

 

語句説明の部分では、シクスーが「エクリチュール・フェミニン」と名付けたものは、ラカンが「ジュイサンス」と名付けたものだと説明されている。

ラカンの理論によると、人間は初めて接した「他者」である母親の欲望を自分の欲望と誤認し、母親に欠落しているもの=ファルスになり同一化を望む。だがこの欲望を父親(法)に阻止されることで、象徴界と呼ばれる言語で構成された社会に入る。

ラカンはこの「父親からの抑圧によって、母親のファルス足りえなかった欲求の欠落」を、人間はずっと抱え続けると考えた。この欠落は人間を「死」に駆り立てるが、それを防ぐために「母親と同一化出来なかった欲求」を埋め合わせる「対象α」を求める。(*実際はもっと複雑だが)

女性における「欠落を補おうとする衝動」が「エクリチュール・フェミニン」だ。

父性的法から逃れ、つねにそれを転覆しようとする、多彩的で流動的な快楽

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「ジュイサンス」河野真太郎 新書館 P248/太字は引用者)

 

シクスーは、「エクリチュール・フェミニン」は身体的な性差には縛られないので男性作家も体現していると言っている。

実際のところは「『テクストが性別を構築する』という点において、シクスーは本質主義への陥落を戦略的に回避」(P216)するためという理由が大きそうだが、既存の社会構造から生まれた言語では表現できないものを表現したい、と思う人が体現するものだと理解した。

 

・クリステヴァ(1941-)

フレンチフェミニズムを代表する三人のうちの一人。

「アブジェクションの理論」を提示した「恐怖の権力」(1980)が有名。

 

排泄物や死体などを「穢れ」として設定して捨て去ることで、「主体」を確立させる。クリステヴァはこれらの排泄物(アブジェクション)を、「母なるもの」に収れんした。

ラカンの母子密着の関係から、父親の権力が機能する象徴界に入る、という理論や「女性嫌悪」「同性愛嫌悪」して共同体内の絆を確認するホモソーシャル理論と関係が深いように感じる。

アブジェクションの理論は、平安時代は月経を「月の触り」として忌むものとしていたように、日本では馴染みが深い考え方ではないか。

「エルデンリング」の「死衾の乙女フィア」は「死」と寝ることで、死を引き受けさせられ、そのために貶められ疎外される母であり、アブジェクションの理論そのままの設定だ。*1

 

フレンチフェミニズムの三人は全員精神分析家で、フロイトーラカンの思想を批判的に継承することで思想を確立させている。

「男性(の欲望)中心主義的」という批判から、女性の身体性、そこから生まれる特異性によって理論を構築している。「性別は身体によって定義される」という前提が、構築主義の観点からバトラーによって批判されている。

 

ガイノクリティシズムの提唱者

・ショーウォーター(1941-)

アメリカにおけるフェミニズム文学批評のパイオニア。現在もジェンダー批評をけん引している。

ミレットの体系が、男性作家の女性蔑視的な表象を批判するばかり(略)であり、女性の作家的な伝統には一瞥もくれていない点は、明らかに後進の批評家に課題を残すことになった。(略)

女性作家に共通の表現形式や感受性を分析しつつ、女性読者の連帯をも模索した批評のうち最も代表的なものは、ガイノクリティシズムである。(略)

これを提唱したのは(略)ショーウォーターである。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P94ー95/太字は引用者)

 

「男の作家が女性をどう描いているか」を注目するのもいいが、同じくらい「女性作家が女性をどう描いてきたか」「男優位社会にどんな眼差しを向けてきたか」「男中心に作家活動、批評、選別がなされてきた陰で、どんな歴史を築いてきたか」という論を読みたいし、自分も注目したい。

オースティンやブロンテの時代は、女性が小説を書くのはもっての他という時代だった。(ブロンテ姉妹は最初男性名で作品を公表していたと思う)

「男の選者のみで男の作品ばかりを選ぶのはおかしい」のは確かにそうだが、「女も含めた選者が選んだ男女の入り乱れた作品を後世に残すべき選集とする」という考え方のほうが自分は好きだ。

 

ガイノクリティシズムも

作家の性アイデンティティを強調しすぎるとともに、テクストの意味と作家の女性としての経験を単純に結びつける傾向がある。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム系批評①女として読み、女として書く」新田啓子 新書館 P94/太字は引用者)

という批判が、モイからされている。

性別は作家のアイデンティティの一部に過ぎないので、余りに「作家が女性であること」に特別な意味を見出すのも、作品の意義を見誤ると思う。

また「ガイノクリティシズム」は「子宮」に基づく造語だが、「子宮のない女性」は女性ではないのかという微妙な違和感がある。

この辺りは、後の本質主義と構築主義の対立の構図へのつながりを感じる。

 

ショーウォーターから影響を受けた二人の共著

・ギルバート(1936ー)・グーバー(1944ー)

フェミニズム批評の記念牌的名著となった「屋根裏の狂女」(1979)を共同で執筆。

狂気・幽閉・監禁・分身・怪物のモチーフは、女性作家たちの家父長制社会下における閉塞感、怒り、自我の産物であることが論じられる。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「ギルバート/グーバー」小澤英美 新書館 P214)

 

これを読んだときに、「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャとイワンの母親ソーニャのことを思い出した。

この時代のロシアの女性は多産と産後の過酷な生活を強いられて、その苦しみからてんかんを患うことが多いという説明がされていた。

「狂気」については「家父長制支配の抑圧と抵抗の暗喩」というより、現実にそのまま出ていたのではと感じた。

「狂」を外部に設置することで、本来は「無」であるはずの「正常」という幻想を生み出す、とはフーコーが主張した論だけれど、この「正常を存在させるための『外部』『狂』『他者』」を引き受けさせられた、ということを基盤にした考え方は、クィア批評やポストコロニアル批評でも頻繁に出てくる。

 

「屋根裏の狂女」もモイが「二人のプロットに沿った物語化が見られる点」(P214)を後続のフェミニストの反省点として上げている。(厳しいな)

 

第三世界(ポストコロニアル・ブラックフェミニズム)の視点

・スピヴァク(1942-)

インド出身。脱構築フェミニズムの文学批評家として出発し、マルクス主義、ポストコロニアルリズムなど様々な角度から問題を論じ続ける。

代表作「サバルタンは語ることが出来るか」で

サバルタンは、西欧の真理体制に根差す言葉を話すはずがないのであり、そう想定することはまた、文化的差異をないがしろにすることに他ならない。(略)

「語らない」サバルタンの声から、フェミニズムの「語り」を再構築することは可能だろうか。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム批評②女とは誰か?」新田啓子 新書館 P99)

という問題提起を行う。

 

「サバルタン」はイタリアの革命家・マルクス主義思想家グラムシが提唱した語。「ヘゲモニー」もグラムシが提唱した語らしい。知らなかった。

グラムシも項目を読むと面白い人だが、フェミニズムとは余り関係がないため今回は割愛。

ポストコロニアル批評家としてサイードが登場して以後、フェミニズムにも第三世界の女性たちからの問題提起が現れ始める。

読んだ限りだとこの辺りの問題提起から

ラディカル・フェミニズムの段階では中心的であった自己語りモードー「個人的なこと」を築き上げるための経験を統合する「全き自我」ーへの信頼を疑うこと(後略)

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「フェミニズム批評②女とは誰か?」新田啓子 新書館 P97/太字は引用者)

「『わたし』=女の誤謬」という視点が生まれたのかなと思った。

後に出てくるフックスの「私は女ではないというのか」(1981)など直球すぎると驚くが、内部でこうやってそれぞれの立場から次々と疑問をぶつけあう姿勢は好感が持てる。

 

・フックス(1952-)

ブラック・フェミニズムの代表的論客。

第二派フェミニズムが中産階級白人女性による/ための運動であり、人種・階級を異にする女性への差別が内在していたこと、また黒人解放運動においても、黒人男性による黒人女性への抑圧があることを指摘。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「ザ・ラウレティス」小澤英美 新書館 P229)

 

人は「女性」というアイデンティティしか持たないわけではないので、同じ女性でも立場、視点、性に対する指向、意識は様々だ。

前半部分を読むとかなりラディカルな人なのかなと思ったが、後半を読むと共感できる考えを述べている。

フェミニズムを「性差別を撤廃するもの」、人種の異なる女性同士はもちろん、男女双方が共闘し等しく享受する社会変革運動と規定

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「ザ・ラウレティス」小澤英美 新書館 P232)

 

この思想のマニフェストが「フェミニズムはみんなもの」とのこと。

フェミニストで「男女同権を掲げる人」は、こういうところから影響を受けているのかなと思った。

自分もフェミニズムとは女性が主体を獲得して、男女双方で社会を作っていくものだと思っているので、この考えに賛成する。

 

 

・ミンハ(1952ー)

ヴェトナム、ハノイ出身。

「西欧社会に身を置く第三世界の女性」という周縁的な立場から、ポストコロニアル・フェミニズムを実践する女性知識人。

 

この人も「西欧男性中心言語」を問題として捉え、

著作「月が赤く満ちるとき」(1991)や「女性・ネイティヴ・他者」(1989)では、イタリックやハイフン、スラッシュなどの境界線を喚起する記号を多用した実験的表現を駆使

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「ザ・ラウレティス」小澤英美 新書館 P233)

している。

 

人間は「言語を用いて(使用して)思考している」のではなく、「言語によって思考させられている(思考を規定されている)」と思うので、言語の問題はとても重要だ。

フェミニズム以外でも、カフカは言語の不安定性によって世界の不安的性を表現したという話や、トルストイは言語の「異化」の作用を多用したという話が出てくる。

ルイ=フェルディナン・セリーヌが「自分が表現したいことは猥語を交えなければ表現できず、しかしその言葉は必ず死ぬ。死ぬことによって、生きたということを証明できる」(意訳)と語ったことも思い出す。

「言葉」は書くことだけで表現するのではなく、書かないこと、死ぬことによっても表現できる。

「書くこと」は時に不自由だ、と大して書いたわけでもない自分でも、書けば書くほど思う。

 

クィアの視点。

・セジウィック(1950ー2009)

アメリカのクィア理論家、英文学者。

西洋近代の強制的異性愛体制における男性同士の社会的な連帯は、同性愛的な欲望を隠蔽するものだとし、このホモソーシャルな欲望と、「女性嫌悪(ミソジニー)」と「同性愛恐怖(ホモフォビア)」とは、ジェンダー・階級・人種が複層的に絡み合った権力構造によって生成され、同時にそれを維持するための要素であることを分析した。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「セジウィック」小澤英美 新書館 P234)

というホモソーシャル理論が有名。

この現象はどの社会、どの属性、どの階層でもあることだと思う。たまに見かける「勘違いサバサバ女ざまあポルノ漫画」は完全に、この理論の女性版だと思っている。

「女性にとって同性から嫌われる」は、その人間が「悪」である根拠となり、排除してよいという理論が可視化されている。これによって「同性と仲良くしなければならない」という女性に対する抑圧が強化再生産されると思うが、そういうことが問題にされていることを余り見たことがない。

 

女性に働きがちな「女性は女性の共同体に適応しなければならない抑圧」は、男性作家のほうが乗り越えているように見えることがある。

「進撃の巨人」のミカサやアニ、「鎌倉殿の13人」のりくを見ると、「同性とうまくやっていこうという意思がないこと」を以て「性格が悪い」とする視点や文脈は見当たらず、そのため読んでいてもそこに注目がほとんどいかない。(「女も一匹狼で構わない」という視点はよく考えると新鮮だが、新鮮だと感じさせないくらい自然)

女性が日頃受けがちな抑圧を、認識していない男性だから(もしくは認識していても)パッと乗り越えられてしまうというという逆転の現象が面白い。

 

・デ・ラウレティス(1938-)

「クィア」という言葉を批評理論に登場させた人物(略)女性の間の差異や、レズビアン・セクシュアリティを主軸にした論を展開する。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「ザ・ラウレティス」小澤英美 新書館 P229)

 

「クィア」という語自体はデ・ラウレティスが提唱したらしいが、一世代前のリッチから「レズビアン連続体」や「強制的異性愛(母性)」など、「異性愛者であり身体的母になるものこそ女性」という発想には疑問が出ていたのかなと思う。

 

「本質主義」対「構築主義」

・バトラー(1956-)

1990年に「ジェンダートラブル」を発表し、ジェンダーのみならず生物学的性差やセクシュアリティも社会的構築物であるとした。

バトラー理論の最大のポイントは、それまでフェミニストがジェンダーの構築性は批判しながらも、セックスの方は生物学的基盤として疑わなかった。その二重構造を解体したことにある。(略)

バトラーの議論は「女」として、いわばその固有の身体性に基づいて、男権知識批判を繰り広げてきたフェミニストを一気に不安に陥れた。事実、セックスが異性愛規範に誘導されたものであり、異性愛規範こそが家父長主義に根源的なイデオロギー装置であったとするならば、フェミニズム運動とはいったい、何を基盤に何と闘ってきたのかがわからなくなってしまう。

そこで加速したのが、いわゆる「構築主義」対「本質主義」論争とみなされる一連のやり取りである。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「ジェンダー批評②ジェンダー・身体・「わたし」の表象」新田啓子 新書館 P105/太字は引用者)

 

そもそも「身体特徴によって女性である」という枠組みそのものが、社会によって構築されたものではないか、という脱構築理論。

クィア理論を含めて、「性差自体が虚構に過ぎない」という「構築主義」と「女性はその身体性に基づいた困難がある→ゆえに身体によって性差は規定される」という本質主義の対立が、本書を読んだ限りは現代のジェンダー問題の主な論点のようだ。

 

自分も「ガイノクリティシズム」のように一定の身体的特徴や機能によって「女性」を象徴することには疑問を感じる。だがバトラーの理論までいくと、実生活の具体的な問題について疑問が多々浮かぶので理解が追いつかない。理屈としては「なるほど」と思うが。

 

ジェンダーだけではなくセックスの枠組みも虚構であるという考えは、フーコー→デリダの考えの援用と思われる。

しかしデリダが考え出した「脱構築」の理論は、その枠組みの中で生きる人全員を「いっきに不安に陥れる」のではないか。

デリダは、その辺りをどう考えているのだろう? と思い、デリダの項目を読んだら

「脱構築」とって「不可能なもの」は到達点であるどころか、まさにその出発点である。(略)

脱構築は否定性を弄するような形式的操作ではなく、ある系譜学の作業として生じる。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「デリダと脱構築」宮崎裕介 新書館 P49/太字引用者

と「脱構築」は目的ではなく出発であり方法なのだ(意訳)と書かれている。

枠組みを解体した後はどうするんだ、と思い読むと

この系譜学なくしては、いかなるテキストをいつ、どこで読み始め読み終えるか、いかなる名を引き受けるのか、という決定は決して下すことはできない。

だがこの決定は、もはや方法論化が不可能な問いとしてわれわれに残されている。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「デリダと脱構築」宮崎裕介 新書館 P49/太字は引用者)

「後世に投げっぱなしなのか?」と驚いた。

社会の枠組みをただ解体することは、その社会の中で実際に生きている人の内面を解体することにつながるが、「脱構築するだけ」ではなくそこを出発点として系譜学を新たな視点で編み直すことが、主眼なのかもしれない。

同じポスト構造主義のドゥルーズの思想が、ネグリとハートの「帝国」のように、資本主義グローバリズムを別の枠組みからとらえ直すことに影響を与えているので、恐らくそうなのだろう。

 

そう考えるとバトラー理論も「身体による性差の枠組みの解体」をした後に、どう新たな枠組みを考えるかに考えが移っているのかなと推測する。

バトラーの思想を、フェミニズムの実地的な運動力を削ぐものと危ぶむ声に応えるかのように、この二作以降は、より具体的な政治問題にコミットしていく。

(引用元:「現代批評理論のすべて」大橋洋一編より「バトラー」小澤英美 新書館 P235)

 

まとめ

この本で自分が追っただけでも、様々な考え、様々な視点が出てきて、内部批判、対立を繰り返して成長した思想なのだということが分かった。

「創作批評」の観点で言えば「理念先行」過ぎて、創作を楽しむことを第一に考えている自分には馴染めない考え方だ。(「思想にプロットや解釈を添わせすぎている」「作者の性アイデンティティを重視しすぎている」という批判がなされている。)

ただひと口に「女性問題」と言った時に、「女性とは何か」「その枠組みは本当に正しいのか」とまで内省を深めていく歴史を見て、自分が思っていたよりもずっと骨太な学問であり運動だと感じた。

また「フェミニズムはみんなのもの」の著者フックスの

フェミニズムを「性差別を撤廃するもの」、人種の異なる女性同士はもちろん、男女双方が共闘し等しく享受する社会変革運動と規定

という考え方には大きな共感を覚えた。

今回学んだことは、今後社会の色々な問題を見るときの視点のひとつとして役立てたい。

 

 

*1:元々「エルデンリング」のこの辺りの話をするために、批評理論を読み直したのだ。