*記事の性質上、内容の核心的なネタバレが含まれます。本編未読の人は、まず本編を読まれることを強くおすすめします。
公平に考えて、面白いと思う人もそうとういると思う。
出来不出来、是非の話ではなく、完全に個人的な趣味嗜好の問題だ。
自分がこの話に引っかかる理由は、自分の中の「そういうもんだライン」を超えているからだ。
「そういうもんだライン」とは
「自分の感覚では現実的ではない、そんなことはまずないだろうと思うこと」を、無意識のうちに「そういうもんだ、創作なんだから」で処理できる基準のことだ。
「無意識のうちに」がポイントだ。
「無意識に処理」出来なくなると、「外枠」が出てくる。
物語の外枠で見たときに、霧子を「ゴミみてえに捨てた」のは、(原文は犯人名)も金田一も同じだ、と思ってしまうところがすごく引っかかるのだ。
「そういうもんだライン」に収まりきらなくなると、この「外枠」が唐突に出てくる。
「リアルライン」や「エクスキューズ」や「そういうもんだライン」は、この「外枠」を意識させないために存在する。
「外枠」は物語と現実を分けるラインで、「読み手としての現実の自分」と「物語という回路を通っている自分」を分けるものだ。
「外枠」を認識した時点で、物語回路に読み手はすでに存在しない。その読み手に対して、その物語は機能していない。
「外枠」を意識したいと思っていないのに意識してしまった場合、物語世界に戻るのは難しい、というより自分個人の考えでは不可能に近い。
「金田一少年の事件簿File2 異人館村殺人事件」を読んで、自分の「そういうもんだライン」について考える。 - うさるの厨二病な読書日記
「硝子の塔の殺人」は途中まで読んだ時点で、綾辻行人の「館シリーズ」のファンであれば「『〇〇館』のオマージュ」と気付くと思う。
何度も何度もさしこまれる「自分たちは物語内の登場人物かもしれない」「人から見られている、誰かいる」「作家(になりたかった人間)が最後に残す遺作」という説明、そして作家になりたかった人物が残す「綾辻行人になりたかった」という言葉。
オマージュ元にも、登場人物の一人が鏡を見て「ひどい顔をしている」と考える場面があった(と思う)。
とするとオチはメタ(もしくはメタのような二重構造)だろうと想像がつく。
二重構造の一重が作家(になりたかった人間)が現実の(を模した)犯行を行う、だとすると、その裏はなんだろう。
両親が死んだ事件が未解決なのにその解決に取り組まないのはおかしいな。→ということは。
ああ、なるほど、作者はこれがやりたかったのか。
そこで気付いたのだ。
自分にとってこの話の何が駄目かというと、読んでいる最中に常に「作者」を意識させられるところだ。
だから読み進めることが億劫に感じられたのだ。
自分が創作に求める最も重要なことは、「現実のことを忘れるほど、その世界を生々しく体感させて欲しい」
情緒的な言い方をするなら、「物語の世界に連れて行って欲しい」のだ。
こういう話が本当にあるのだ、と読んでいるあいだはうまく騙して欲しい。
この話は自分の中にある「騙されポイント」とことごとく相性が悪かった。
例えば、「一般的な感覚」から逸脱しているキャラが複数いる上に、その逸脱の仕方が「不道徳なことを含めて何でもアリ」になっている。
物語世界は現実とは違うので、「現実において一般的な感覚」から逸脱したキャラ(読み手がまったく共感できないほど倫理感や道徳観がないキャラ)が出てきてももちろんいい。
だがそういうキャラが多いと、現実で日常を生きている読み手の感覚とはかけ離れた、「逸脱した感覚のほうが普通(多数派)」になる。
サイコパスが余りに多いと、「物語世界ではサイコパスのほうが普通で、読み手の感覚のほうが特殊になる」。
「自分(読み手)には異常に見えるが、この世界ではこれが普通なのだ」と思い、物語世界で起こる事象の意味を読み手が判断(解釈)出来なくなる。
そうすると「一般的な感覚で言えば」意味のあるインパクトのある出来事をスルーしてしまったり、現実世界では一般的な認識に基づく判断を、突然求められて困惑するという事態が起こる。
「一般的な感覚や認識が普通である、という保証が存在しない世界観」では、例えば「身内を殺されたから、復讐を考えて当たり前だ」と言われても、そのコンセンサスが取れなくなる。
この物語世界では「一般的な感覚」は当たり前ではないので「その気持ちを留保なく、動機として十分だということを納得しろ」と言われてもな、という感じだ。
「サイコパスは二人までというルールが欲しい」というのは、「一般的な感覚や認識は、土台として担保しておいたほうがいい。そうでないと一般的な反応でさえ、そのキャラのキャラクター性に依存しなければ説明がつかなくなる」からだ。
自分は真犯人が犯行を犯した動機には共感したが、共感しているのは「現実世界の自分」ではなく「物語世界の自分」*1だ。
普段であれば、「いくら極端なことを考えようが、それは『物語を読んでいる(物語世界にいる)自分』なのだから、読み終わったあとの現実ではもちろんそんなことは思わない」
これで終わりである。
ところがこの本は、作者の影が見えているので、読んでいる最中なのに「現実の自分」も存在している。
「人間は最も大事にしているものを踏みにじられたとき、他人を殺すんだ」(P472)という言葉に、「自分も創作の世界に連れて行ってくれると思って、常に現実の影をちらつかせられたら、この犯人みたいに思うかもしれない」という「物語世界にいる自分」と、「いやいや、たかが創作の問題でそんなことを思うなよ」と思う「現実の自分」が頭の中に同時に出てきて参った。
何で創作を読んでいる最中に(読み終わったらあとの現実でならともかく)「たかが創作」と思わなきゃならないんだ……。
真犯人と同じくらい筋違いなことを言っていると分かっていても(というより分かっているからこそ)苛立ちがわいてくる。
自分は創作に対して面倒臭いほどこだわる人が好きだ。
そういう人はその創作を例え自分が知らなくても、趣味が合わなくても、会うことも話すこともなくとも(勝手に)同志だと思っている。
ネットに求めているのは、そういう面倒くさい人の「私だけの感想」だ。
「たかが創作」に苦痛を感じるほどのめり込んだ人が「たった一人の自分」として語る、その作品への重い思いを聞きたいのだ。
メタ視点や二重構造、連環構造はむしろ好きだ。
創作なんだから、倫理や道徳を望んでいるわけではない。
手法や語られている内容を云々しているのではない。
自分が創作に望んでいるのは、「読んでいる最中は、現実とは関係ない『物語』の回路を通らせて欲しい」
ただこの一点だ。
現実とは関係がない創作の世界に連れて行ってくれれば、何でもいいのだ。*2
それが、読者が思うほど簡単ではないことはわかる。
だから「今回は入りこめなかったな」と思ったこと自体は仕方がないと思う。好みの問題もあるし。
自分がこの作品に引っかかるのは、かなり確信犯的にこの構図を作っているのではと思ってしまうところだ。
自分個人の感覚で言えば、それは創作とは何なのかという根底に関わる問題だ。
強いわだかまりを感じたが、それは自分の勝手な推測であり「not for me」に過ぎない、ということは十分わかった上での個人的な感想である。
自分が考える優れた創作(ミステリー)は、読みおわったあと、なおもその悪夢のような世界が続いていると思わせてくれるものだ。
そういう作品は、結末もトリックもすべて知っていてるのに、何度読んでもその悪夢を体感することが出来る。
「うみねこのなく頃に」に「『そして誰もいなくなった』は、最後の告白書の部分を破いてしまえば、魔法による殺人そのものではないか」という言葉が出てくる。
まさに言いえて妙で、わずか四日のあいだに起こった人の仕業とは思えない不可思議な大量殺人、とってつけたような告白書による唐突な幕の閉じ方、そういったものが読み手の恐怖や謎に対する想像力を掻き立てる作りになっている。
この解釈の余地を残したところ、物語が終わったあとも終わっていないように感じられるところ、もっと他の真相があるのではないかと思えてしまうところこそ、この話の最も優れた点だと思う。
だからこの話の題名は、いつまでも形を変えながら繰り返し用いられ、いつまでも傑作として語り継がれているのだと思っている。
【小説考察】アガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」の事件と犯人を細かく検証してみた。 - うさるの厨二病な読書日記
「そして誰もいなくなった」は、クリスティはたまたま垣間見てしまった事件をそのまま書いただけなのではないか。
あの世界は作者の手から離れて自律的に動きつづけているのではないか。
そして今でも永遠に回る輪のように、自分が本を開くたびにあの事件は一から起こっているのではないか。
物語が終わってなお、「物語世界」を体感させてくれる創作が大好きな自分から見ると、「硝子の塔の殺人」はその真逆に位置する作品であり、その点が駄目だったのだなという結論に落ち着いた。
*余談。「後期クイーン的問題」とは銘を打っていないけれど、似た問題が含まれている話ではこれが面白かった。