うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

学生運動の背景を知ることが出来る本の紹介をしながら、適当に雑談をしたい。

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少し前にネットで学生運動の話をよく見かけたので、自分が今まで読んだり聞いたりした話と合わせて雑談したい。

 

この時代の学生運動周囲の話を見ていくと、そのセクトや大学によってだいぶ雰囲気が違う。(考え方が違うので当たり前だが)

例えば立花隆の「革マル対中核」を読むと、革共同から分裂したこの二党派の大きな違いは、労働運動へのスタンス、どれくらい力を入れていたかのようだ。

革マル派の主目標は、なによりも革命をになうことができるプロレタリアートの前衛党の組織作りにある。学生運動については、それ独自の革命的の機能は認めず、『プロレタリアートによる学生の獲得』がスローガンである。(略)

いってみれば、革マル派の組織の本隊は、あくまで労働者の組織であって、学生組織はそれに従属するものでしかない。(略)

すでに有名な勤労、国労に始まって、全連、自治労、教労といったところで、革マル派の組織は大きな根を張っていた。

(引用元:「中核VS革マル」下巻 立花隆 講談社 P166ーP168/太字は引用者)

 

「彼は早稲田で死んだ」で問題になっていた革マル派は、労働者の組織が本体で、学生組織が従属する考え方を持っていた。

革マル派の最高指導者だった黒田寛一は、最終学歴が高校中退で大学に行っていない。

黒田寛一 - Wikipedia

自前で出版社が作れるくらい、実家は裕福だったようだが。

 

この時代の反体制、反権力の思想は、労働者など一般の働く人の間にも波及していた。

あさま山荘の包囲の指揮を取った佐々淳行の「連合赤軍「あさま山荘」事件」 の中に、学校で警察官や自衛隊の親を持つ子が立たされて「この子たちの親は悪い人だ」と言われた、という描写*1があった。

いま聞くと信じられないが、そういう時代だったのだ。

 

地域住民と学生が結託して行った闘争もたくさんある。

三里塚闘争などは、「中核VS革マル」を読むと、中心は地元の住民運動だ。

三里塚闘争 - Wikipedia

 

三里塚闘争の戦略・戦術を決定し、それを自ら実践していったのは農民たち自身だった。コザ市の暴動にしても、いずれかの党派の指導によるものではなく、自然発生的なものだった。

この二つの事件で、過激派を自任していた中核派は、むしろ過激さにおいて大衆に乗り越えられているという意識を持ったのではないだろうか。

(引用元:「中核VS革マル」下巻 立花隆 講談社 P166ーP168/太字は引用者)

 

「過激派」と自他共に認められていた中核派が、「自分たちは過激さで大衆に負けている。まだまだだ」と思った*2のだ。

「三里塚闘争」と「沖縄返還調印阻止運動」の描写を最初に読んだ時は、「文化大革命」のリンチ描写を読んだ時と同じくらいドン引きした。

暴動やその鎮圧と言う次元を超えて、「殺し合い」の様相を呈している。

色々な本の描写から見ると、学生にも労働者にも「権力」というものに対して憎しみに近い不信感があって、それをむき出しにすることに躊躇いがない。

むしろ率先してそうすることで自分たちの存在を訴えている印象がある。

今の時代もさほど信頼感はないかもしれないが、「権力=(殴り殺していい)敵」という空気はさすがに感じない。

 

つかこうへいの「飛龍伝」でも描かれていたが、この時代の警察や機動隊の実戦部隊に配備されていた人は貧しい家庭の中高卒の人が多かった。

そういう人たちに対して、比較的経済に余裕がある学生たちが社会の矛盾を訴えて暴力を振るう、というのは自分も疑問を感じる。

「権力に与している」からプロレタリアートには入らないのだろうか。このへんはよくわからない。

 

東大安田講堂にフィルムや書籍があって、それが放水などでダメになったかどうかという話も見た。

真偽は不明だが、仮にそういうことがあったとしても、この時代の学生たちの物の見方だと「フィルムや資料を『それ自体』として見る」という発想を取らなかったのではないか。

「文化大革命」のように「過去の権威」に価値を見出さないこともあっただろうし、当時はやっていた「実存的な物の見方」の影響も大きかったと思う。

「お前はどこにいる? と言われて、事物について行われる関係づけが使えない場合、答えようがないんじゃないか、っていうことね。もう、これ(講堂の机)を机と言うことすら言えない状態で問われるわけだから、ここが900番教室ということ自体がなくなってしまう。

そうすると結局、一方的に関係づけられてしまう我々(略)その関係を逆転するっていうことだけは分かっているわけですよ。だからバリケードを作る、あらゆる関係づけを排除した空間を作る。それに対して、我々の側がバリケードよりも高みに立って、関係づけを行わなければならないわけでしょう」

「イメージを事物で乗り越えるとき、そこに空間が生まれるわけです」

「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」メモと感想。三島由紀夫というスターと尖がっている学生たちの舌戦が理屈抜きで面白かった。 - うさるの厨二病な読書日記

 

三島由紀夫が学生の一人に「自然と人間の関係」を聞かれたときに、問答の中で出てきた学生*3の主張だ

 

「その物を、(資本主義社会の?)生産者の意図として使う」こと自体が忌避されることであり、自分たちの意図によって、その物に主体的に関与しなければならない。

革命(プロレタリアート)的視点に立てば、机は机ではなく権力を防ぐバリケードになる。

そうやって「自分たちに植え付けられた既存社会のイメージ」を実際の行動で打破しない限りは、自分たちの主張を打ち立てる場は生まれない。

 

この時代の学生運動の話を読むと、こういう考え方が頻繁に出てくる。*4

連合赤軍事件の総括でも、「銃はそれだけではただの銃だが、革命戦士になったお前が持つことで『革命的な銃』になる」という謎の理論*5が出てきた。

それこそ「太い実家を持つことで作られたキャラ(自己)」を、意識的に壊さなければ、*6資本主義社会によって構築された自己を止揚*7できない。そういう発想なのだと思う。たぶん。

当時流行っていた?「ハイデガー→サルトル+マルクス」の考えからきているのでは、と推測しているが、この辺りは自分もよく知らないので詳しい人に聞いてもらったほうがいいと思う。*8

 

この時代の人は、世界を変えるために自己や他人の内面を精査して問題を見出して変える、そうすることによって世界は変わるという考えに夢中になった。

主体の変革が世界を変革する、という考え自体は面白いなと思う。「ウテナ」を思い出す。

ただそれを他人にも適用したことが誤りだったと思っている。

 

この辺りの当事者の振り返りを描いた創作として、奥泉光の「ノヴァーリスの引用」が好きだ。 

(略)近世オランダ経済史を扱った修士論文の扉に、「哲学者の使命は世界を解釈するこではなく、世界を変革することである」とのエピグラムをモンブランの太字の万年筆で記した。(略)

マルクスの言葉自体はいまなお新しさを失っていないにせよ、ひどく手垢にまみれてしまっている。

(引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P13)

(略)私は、「主体性」の言葉に以前と変わらぬ価値を与える旧友の思考スタイルに、微かな気恥ずかしさを覚えながら発言した。

(引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P16)

研究会がなくなってからも、私たち毎日のように顔をあわせてはいたけれど、気密室にいるような濃密な関係の気分は急速に衰え、議論が交わされる場合でも、過剰に攻撃的な調子は陰を潜め、裸の自我をかすめて言葉がやりとりされることはもはやなかった。(略)

読み進みつつあるテキスト自体は問題の本質ではなかった。テキストを即して語りながら、私たちは多くの時間を己自身を語るのに費やしたのであり、むしろテキストはそうした性急さに対する緩衝材の役割を果たしていたというべきであろう。

(引用元:「ノヴァーリスの引用」奥泉光 創元社 P23-P24/太字は引用者)

 

「何かに即して隙あらば自分語り」は、今の時代もそこかしこでも見る。

特異で理解しがたい時代のように見えて、対象や道具や語り方が違うだけで、今の時代と内実はそれほど変わらないのだ。

当事者たちのこういう振り返りを聞きながら、今の時代の自分たちはどうかなと思うことが大切ではと思うのだ。

 

 

 

そう言えば内田樹も出ていた。

 

 

これも以前読んだ記憶があるけどうろ覚え。

 

*1:若干うろ覚え

*2:これはこれで「え…?」と思うが

*3:劇作家の芥正彦

*4:正直、自分も言っていること自体はよくわからない。

*5:総括の理論はこの辺りのことを踏まえないとよくわからない……と言いたいところだが、このあたりを踏まえてもよくわからない。

*6:自分が「太実家まとめ」を何だかなと感じるのは、批判しているようでこの論理にそっくり内包されてしまっているからだ。

*7:アウフハーベン

*8:誰かどこかで話していそう