小説で「台風だしピザでも頼む?」と攻めが言い出した…倫理観の違いで読めなくなることあるよね「鬼畜攻めかよ」 - Togetter
先日、うちのオカンと話していたら*1
この本の話になった。
あさま山荘の立てこもった犯人の一人・吉野雅邦の生い立ちや、山岳ベースのリンチ殺人で亡くなった金子みちよさんとの交際について、吉野の親友の大泉康雄さんが書いた本だ。
自分は連合赤軍関連の本の中では、この本が一番好きなので意気揚々と
「あの本いいよね」
と言いかけた、まさにその瞬間のこと。
なんということでしょう。(ナレーション風)
オカンが突然、(# ゚Д゚)こんな顔になった。
「読んだけど、吉野雅邦って金子さんのことを二回も中絶させているの? そんな人だと思わなかった。金子さんも金子さんだ。(←友達かよ)ムカつきすぎて読めなくなった」
「あの本いいよね」の「あのほ……」まで言いかけた顔のまま、オカンのキッレキレのトークを聞く羽目になった。
確かにそこは自分も引っかかった。
永田洋子の本で書かれていたが、二人が所属していた革命左派は「女性が活動を続けたければ、妊娠したら中絶しなければならない」という暗黙の了解があった。
また指名手配されている人間が潜伏するとき、女性メンバーが夫婦のフリをして男のメンバーの世話をすることが常態化していた。
そのためかどうかは知らないが「女性が男性メンバーを警戒することは失礼だ」という考えがあり、永田洋子によれば、それを素直に受け入れて川島豪*2と一緒に泊まったら襲われたという話が出てくる。
ここまでひどくはないが、他の派や当時を背景にした話を読んでも性差別の話はそこかしこに出てくる。
永田洋子に対する判決で「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」という文言が入っている、そういう時代だったのだ。
先日死んだうちの父親のこの時代の話には、そこはかとなく重い空気が漂うのだが
母親の話には、どこか自分が過ごした学生時代と変わらないような「日常っぽさ」と暢気さ、カラッとした明るさがある。
二人の性格や思入れの違いもあるかもしれないが、性別による違いもあるのかもしれない。
自分が見てきたこの時代の学生運動の話の中で、「指導者」はほぼ男だ。
「三島由紀夫対東大全共闘」でも、壇上に立って三島(男)と論戦するのは全員男で、ドキュメンタリーにコメントを寄せたのも男性識者だ。
大学進学率が性別によって大きな差がある時代だった。
画面上で起こっている「女性は男が論争する壇上にも立てない絵面」が、この時代の女性が置かれていた現実だった。
「一緒にアジ演説を見ていた時に、隣りにいた〇〇くん(誰だよ)が『偉い人はああやって喋るばっかりだからいいよな。俺もああなりたい』って言っているのを聞いて、なあんだ、この人たちって自分が偉くなることしか考えていないんだ、と思ったらアホらしくなった」
「サルトルの講演会に友達と応募したんだけど、私だけ落ちた。友達に『どうだった?』って聞いたら、『はあ? 何が何だかわからなかったわよ』って言われた」
オカンの語りには、あの時代の思想や運動を斜め見る皮肉な視線が常にある。
「結局は、男たちのヒエラルキー争いに過ぎないのではないか」という疑いの目が、(自分から見ると)一種の諧謔になって入っている。
だからかもしれないが、前述した永田洋子に対しては罪は罪としても、若干同情的な視点を持っている。
大塚英志がこの本で書いた、「連合赤軍の女性兵士は、新左翼の言語を女性解放の言語だと勘違いしてしまった」「その言語によって作られた女性差別的な枠組みに、唯々諾々として従ってしまった」というのと同じ視点だ。
女性解放も目指して運動に参加していた女性は、権力と戦いつつ、その組織の中でさらに男のメンバーから抑圧されるという矛盾の中で、自分の思想や主張を訴えなければならなかった。
どの時代、どの場所にもいた、真剣に世の中を変えようと思っていた女性たちに共通する悲哀なのかもしれない。
ただ何十年も連れ添った夫がつい先日死んだ今でさえ、「悲哀」という言葉はオカンのどこからも感じられない。*3
五十年も前の事件の犯人の一人と被害者の関係について、まるでサークル内で友達から聞いた今日の出来事を話すようにまくしたてるオカンを見て、ああなるほど、この人は学生だった時こういう風だったのか、と妙な感慨がわいた。
子供である自分から見ると、父親と母親はまったく違う世界観で生きており、そこには対立軸さえ存在しない。二本の平行の線が何十年も交わることなく、ただ並んで引かれている様を見るとこういうこともあるのかと思う。
と、いうと「並んでいるんだから良かったじゃない。離れちゃったら大変だったけど(←まったく大変そうに聞こえない)」と言われそうだけど。