※この記事には「竜とそばかすの姫」のネタバレが含まれます。未視聴のかたはご注意下さい。
※タイトル通り、否定的な内容です。
細田守の作品は「バケモノの子」以外は全部観ているが、観るたびに一体、なぜ面白くないのだろう*1と考えてしまう。
「細田守の作品の面白くなさ」は説明しづらい。
あと数センチずれれば、面白くなるのに、なぜその数センチをずらすのか?
どの作品を見ても「その数センチが絶対必要だと思ってずらしている」とは思えない。
逆だ。
「その数センチが絶対必要だからずらしている」のではなく、絶対に譲れないポイントをつなぐためには、他の部分はズレてもいい、という精神で作っているように見える。その適当さが積み重なって、全てがおかしく見えるのだ。
「竜とそばかすの姫」を題材にして、どこがどうズレていると感じるのか、その歪みが最終的にどこに行き着いているのかを考えてみた。
根幹の設定からしてあやふや。
「竜とそばかすの姫」は、「鈴と恵」「竜とベル」の物語だ。何しろタイトルがそうなのだから。
大事なことなので二回言うが、「竜とそばかすの姫」はタイトルが示す通り、「竜とベル」「鈴と恵」の話なのだ。
この二人が出会うことによって、鈴は自信のなさを克服し、恵は父親に立ち向かう勇気を手に入れる。
そういう話のはずだ。
ところが根幹であるこの設定からグラグラしている。
鈴はなぜそんなに自信がないのか。
母親が亡くなったせいか。自分の容姿に自信がないからか。
この二つの理由が混在していて、結果どっちつかずになっている。
ストーリーの克服すべき課題なのに、原因がはっきりしない。原因がはっきりしなければ克服はできない。
個人的には、この時点でストーリーとしての態をなしていないと思うが、話をもう少し続ける。
意味のない設定が多すぎる。
「意味のない設定」の例として「鈴が父親に心を開けない理由」がある。
「鈴が父親に心を開けない理由」は描かれていないので、「母親の死が原因」と考えるしかない。
だが「母親の死」という設定は、「鈴が自信がない理由」がはっきりしないため、物語上ほとんど機能していない。
母親の死がどう機能しているかわからないので、母親の死にだけ紐づいている「父親に心を開けない設定」も何の意味があるかわからない。
「母親の死」→「父親に心を開けない設定」がまとめて意味がないものになってしまっている。
鈴が父親に心を開けない理由がわからない以前に、設定自体に意味がないのだ。
出てきた設定に意味がないということは物語では考えられないため、初めは父親が竜なのかと思っていた。
「疑似近親相姦か、やるなあ」と思ったらまったく違った。何なんだ、一体。
「竜とそばかすの姫」は、こういうストーリー上さほど意味がない設定がいくつも出てくる。
他の設定との連環がない、他の設定の根拠や意味づけにも結果にもなっておらず、なぜその話が突然出て来たか、因果や意味がまったくわからない。
興味がないことがひしひしと伝わってくる、エピソードとキャラクター。
「因果がまったくわからない展開は、ストーリーではなく、ただの事象の羅列だ」と以前書いたことがあるが、細田守の作品は「事象の羅列」と思う展開が多い。
しかも、その事象を描きたいから羅列しているのではない。「それっぽいストーリーで穴埋めしよう」として描いている、そうとしか思えないものが多すぎる。
例えばカミシンとルカの恋愛エピソードだ。
一般的な物語であれば、忍と鈴の仲を揺さぶるためであったり、他の誰かの関係の暗喩なり比較なりを描くためにある。(つまり他の設定や展開と、因果なり紐づけがある)
ところがカミシンとルカのエピソードは、本当にメインのストーリー*2と何の関係もない。
なぜ特に面白いとも思えない、メインストーリーにまったく影響がないエピソードを入れるのか。
描きたいこと以外にかける労力を、出来るだけ少なくするためではないか。
カミシンとルカのエピソードの類型は、恋愛漫画を読んでいると頻繁に出てくる。
人気者(もしくは友人)の女の子が自分の好きな人を好きだと勘違いする。→あの子には敵わないから諦めなければならない→と思ったら、人気者の女の子はまったく別の男(カミシンのような『お人よしキャラ』が多い)が好きだった。
このエピソード単体で意味があるものではなく、ヒロインと相手役の仲を揺さぶる(こじらせる)ための小道具だ。
ところが「竜とそばかすの姫」では、このエピソードはほとんど鈴と忍の仲を揺さぶらない。
なぜ、鈴と忍の仲を揺さぶられないかと言うと、「忍と鈴の恋愛」が本題ではないからだ。忍と鈴の仲を揺さぶっても、メインストーリーである「恵と鈴の関係性」には何の影響もない。意味がないのだ。
ストーリー上は、このエピソードを入れる「意味」がないとすれば、ストーリー外で何か意味があると考えるしかなくなる。
この設定はテンプレになっているので、そのまま入れ込むだけでストーリーの穴埋めが出来る。見ているほうも「ああ、あの設定か」と深く考えずに受け入れられる。
作り手も視聴者も最小限の労力で、話の尺を稼ぐために入れたのではないか。
ひどい言い方だが、どう見ても作り手がこの二人の恋愛に興味があるようには見えない。
「ミスリード」という機能しか持たない相手役・忍。
さらに言うと、忍と鈴の仲にも興味があるように見えない。
この二人に恋愛の可能性があるように描けば、竜の正体のミスリードになるのではないかという「あわよくば」という発想しか感じられない。
忍は竜の正体を隠すためのミスリードのため以外に、この物語に存在する理由がない。
「鈴の幼馴染みで、鈴を大切に思っている」としても、その忍のキャラクター性はまったく物語に絡んでいない。
「忍というキャラの意味や機能がミスリードでしかないところ」も、細田作品の面白くなさを表している。
「『忍は鈴の幼馴染みで、鈴を大切に思っているというキャラクター』だから、竜の正体としてミスリードになる」
一般的なストーリーはこうだ。
キャラクターがしっかり固まっていて、そのキャラがストーリー上にどう機能するかという発想で配置されている。
しかし忍は
「忍を竜の正体のミスリードとして機能させたいから、鈴の幼馴染みであり鈴を大切に思っているという設定が付与されている」
こうなっているように見える。
だから「ミスリード機能」以外の忍のキャラクターが謎なのだ。
タイトルが示す通り、鈴と恵の関係をメインに描けばいいのに、「ミスリードしたい」という欲が出て(かはわからないが、他にどういう理由で出したのかわからない)、忍のように必要も興味もないキャラを出してしまう。
かと言って「ミスリードすること」にも興味がない。
では「ミスリードしたい」という思惑で、仕掛けをしっかり作りこんでいるのかといえばそんなこともない。
竜のキャラと忍のキャラはまったく被っていないし(しのぶに『傷』の要素が見当たらない)、仮想空間では突き放して、現実では近寄ってくるという行動も辻褄が合わない。(『現実では近づけないので、仮想空間で近づいてくる』ならわかるが)
「側にいる幼馴染み」という設定ひとつでミスリードが出来る、と思っているとしか思えない。
忍のキャラにもミスリードにもまったく興味がないのに、「それっぽく見せる」ために入れてくる。
これは細田作品の悪い癖だと思う。
「くんちゃん萌え」だけで98分の長編映画を作れることには驚嘆するが、見ているほうは持たない。
なぜ、こんなに興味がないことがあからさまなもので穴埋めしてくるのか。
「未来のミライ」の反省を踏まえているのではないか。
「未来のミライ」は、作者の「興味があるもの」だけで作られた作品だ。「くんちゃん萌え」である。
「四歳の男児への萌え」だけで、1時間30分超の長編を作れるその特異性(穏当な表現)には驚嘆した。
自分は細田守作品を見誤っていた。観終わった後、そうおおいに反省した。
「未来のミライ」は意外にもくんちゃんに萌えられたので、思ったよりは楽しく見れた。だが、1時間30分はさすがに長い。
「竜とそばかすの姫」もどう見ても恵(竜)にしか興味がない。(ベル(鈴)にも多少はあるか)
こういう陰をしょった獣になる少年が本当に好きなんだろう。
細田守の作品が公開のたびに賛否を巻き起こし、時に酷評にさらされながらも次々と作られるのは、ごくわずかでも「萌え」が重なるとすさまじい破壊力があるからではないか。
萌えが重なればすべて良し。
と言うのも、「竜とそばかすの姫」はこれだけあーだこーだ言いながら、最後のおねショタに全部持っていかれてそれなりに面白かったからだ。(え?)
自分の脳内では忍と鈴が付き合っているところに、恵がUと現実でツンとデレを使い分けるアプローチをし、結局は鈴は恵と付き合うというストーリーが出来上がっている。
そういう続編を作ってくれたら見に行くんだけどな。
ところでジャスティンの正体は誰だったのだろうか。恵と知の父親では、という推理をしていたのだが。
明かされなかったところを見ると、これもどうでもいいことだったようだ。
細田守作品の真価に刮目した(真顔)「未来のミライ」について。
続き。
それでも、細田守のように「自分のための物語を語る人」に創作を作り続けて欲しい。|うさる|note