ついに時政とりくが退場か。寂しいな。
特にりくは、こんなに面白い女性キャラをみたのは久し振りだと思うくらい魅力的なキャラだった。
りくという女性が、よく理解できなかった。
自分にとってのりくの面白さと魅力は、まったく理解できないところにある。理解するとっかかりすらない。
りくの言動は一貫性があるようでない。表層的には野心と上昇志向がモチベーションのように見えるが、本当に「偉くなりたい」と思っているようにも見えない。
一体、りくは本当は何を求めているのか。何がりくにとって重要なのか。
野心なのか、恐怖なのか、悲しさなのか、不安なのか、愛情なのか。
そのどれにも見えるし、どれにも見えなかった。
りくの言っていることややっていることは、馬鹿馬鹿しいとしか思えない。しかし、何故か愚かには見えない。
何もかもわかってやっているように見えるのだ。
息子を殺したのも平賀朝雅だと分かっていて、畠山を滅ぼせと言っているように見える。
口で言っていることとまったく違うことを考えて、行動している。
言っていることは感情的で支離滅裂だが、自分が感情的で支離滅裂なことを百も承知で話しているのではないか。
何故なんだろうな、とずっと考えながら見ていた。
それが、退場間際の最後の最後でようやくわかった気がした。
りくの前では、「りくを殺そうとする自分」さえ存在することが出来る。
これがりくだ、と思ったのは、自分を殺す刺客を差し向けた義時に放った「あなた、私のことを殺そうとしたでしょ?」という言葉だ。
りくは自分という存在によって、義時が「義母を暗殺する」ということを決意した、ということを知っているのだ。
「操る」というのとも違う。
りくは、義時を操るつもりなどない。自分の話したいように、やりたいようにやっているだけだ。
だがりくがやりたいようにやり、言いたいことを言うだけで、義時は「いざという時は暗殺という手段を用いて、無抵抗の女性でさえ殺す自分」になるのだ。
義時は今までも数々の暗い行為に手を染めてきた。子供も殺した。
義時が息子の泰時に「ただ自分のやることを見ておけ」というのは、そういう自分を知って欲しいからだ。「自分と同じようになるなよ」という気持ちがあるせよ、まずは「自分がどういう人間であるか」ただ知って欲しい。
それを受け入れた上で、反面教師にして欲しい。
こういう順番である。
しかしそれは並の人間には難しい。
「これは悪だ」という判断が先に来て、受け入れることを拒絶する。
りくのように「私はあなたが、いざという時は、無抵抗の女子供だろうと殺す人間であることを知っている」ということを、責めるでもなく、蔑むでもなく(つまり善悪の判断をせず)ただ自分にとってちょっとした面白い事実として受け入れることが出来る人間はほとんどいない。
「鎌倉殿の13人」で義時は、権力闘争を経て、自分が本来冷酷な人間であることを知っていく。
「やらなければならないことでも出来ない」人間もいる中で、自分は「やらなければならないこと」という言い訳さえあれば、女子供でさえ殺せる人間であることを知っていくのだ。
これはかなりキツイことだと思う。そういう自分を一人で背負い込むのはとても辛いことだ。
りくの希有なところは、そういう「人間の卑劣さ、冷酷さ」を認めてくれるところだ。
りくの前では「りくを殺そうとする自分」でさえ存在を認めてもらえる。そういう自分でいることが出来るのだ。
りくはただ一人、「時政が、野心や権力欲がある存在であること」を赦した。
りくを最初にいいなと思ったのは、義時がりくに「義母上は、父上にその(執権を務める)器があると、本当に思っているのですか?」と尋ねた時だ。
りくは「私は私の夫の器を信じている」と言い返した。
あの時に、家族と仲のいい人間を愛する平凡な気のいいだけの男だった時政の中に、出来のいい息子に負けたくない、権勢を競ってでも権力を求める存在になる可能性が生まれたのだ。
息子でさえ「優しいがそんな才覚はない」と思っていた時政の中に眠る権力欲を、競争心を、りくは見つけた。
誰もそんなものが時政の中に存在することを認めなかった。
時政自身でさえ、自分にそんな部分があるとは認めなかった。りくに出会わなければ、時政は時流に乗っただけの平凡な男で終わるはずだった。
りくは、時政が「息子と権勢を争い、孫を無理矢理権力の座から追い落とし死に追いやる人間であること」を赦した唯一の人間だ。
それは周りから見ればとてつもなく不幸なことだろう。
しかし時政個人にとってはどうだろう。
自分の中に眠る自分を、周りに迷惑をかけないために「そんなものは存在しない」と思って生きて死んでいく。*1例えそれが「そんなもの」だったとしても、それを発見できることは、その人にとってとても幸運なことだと思う。
「りくさえいなければ、時政はこんなことはしなかった」という幻想を引き受ける。
義時がりくを殺そうとした理由は、作中では明確に語られていない。
「時政を再びそそのかす危険があるから」という文脈が強いが、全てを吹っ切った時政の様子を見るとどこか納得がいかない。
解釈が分かれるところだと思うが、自分は義時がりくを憎悪していたからではないかと思っている。
父親が死ぬときに、自分はその手を握ることさえ出来なくなってしまった。そういう境遇に自分たち親子を陥らせたりくへの恨みの上に、「りくが生きていると、時政によからぬことを吹き込むから」という表面的な理由をかぶせたのではないか。
そういう複雑な心境が、物語上では明確な理由が語られない曖昧さに表れているように思えた。
義時が時政を罰し、二度と会えない境遇になってしまったのは、りくのせいだけではない。
最終的に決断したのは時政本人だ。
そしてそういう決断をした背景には、時政を「気の優しいいい父親だが、政治家としては平凡」と見ていた義時の視線の影響もあったのではないか。
りくに全ての責任を押し付けるのは、公平ではない。
しかしそういうことも含めた、やり場のない怒りを義時はりくにぶつけようとした。
義時はこの後に及んでも、「りくさえいなければ、時政は優しい父親だった」という幻想にすがった。
りくはそういった義時の心の動きを正確に読み取っていた。そしてその理不尽さを不公平さを赦した。
「安心しなさい。私はもうしい様をそそのかしたりはしませんから」
と言ったのは、義時の幻想に乗っかった言葉だ。
「あなたの優しい父親だった時政を狂わせたのは全て私の責任だ」という物語を引き受け、時政がやったこと、時政をそのようにした義時の驕りを、悪性を一身に背負ったのだ。
それは時政も「儂は、りくがいればいい」と言うだろう。
自分も含めて誰一人、最後まで存在することを許さなかった「権力欲に酔う自分」を、ただ一人認めてくれた人なのだから。
と言うのも、自分が義時の立場だったら、まったく同じことをしそうだからだ。
そういう自分の心の動きを見抜かれて、
「わかるわかる、そりゃあ殺したくなるよね。あんたの父親がおかしくなったのは、私がいたからだもの。本当は優しい、こんなことを絶対にしない人だったのに。ごめんね」
を全部含んだ
「あなた、私のことを殺そうとしたでしょ?」
と言われたらどうするかな。
「そうです、殺そうとしました」と言って、その後は地獄の底までついて行ってしまいそうだ。
続き。義時について。
*1:時代が時代なので、むしろこういうことが出来ていた時政は凄いとは思うが。