ミャンマーの軍事クーデターについて上記の番組を見た時に、
なぜ軍がこれほど過酷に自国民を弾圧できるのか。
軍の内部でも何か疑問は出て来ないのか。
軍部のほうが選挙で選ばれた政治家よりも圧倒的に力が強いように見えるが、どうしてこんなパワーバランスになっているのか。
自分の中にこういう疑問があった。
その疑問については
「まがなりにも国家に所属する軍隊が、権力を握るためにクーデターを起こした」と考えていたが、そもそもミャンマー軍は政治からは……というより国家(国民)から完全に切り離された組織のようだ。
「国の軍隊」というより、「国の内部に存在する、国家とはまったく利害の方向性が違い外部とは隔絶した独立した集団」というほうが感覚としては近い。
「国(民)を守る」という意識は、建前としてさえ共有していない。
現代日本で生きている感覚だと「軍」としてもかなり異常な成り立ちで、こういう組織が何故、「国の軍隊」として国の内部に存在するのか理解できない。
そもそも現代日本に生きる自分が想像する「国軍」とは違う存在だ、と気付いた。
ではなぜ「国の軍」と言いながら、「国から隔絶したもの。国家とは利害を異にする独立した集団」の様相を呈しているのか。
それを知りたくて本書を手に取った。
わかったのは、そもそも「国」とは何なのか、ということにミャンマーはずっと苦しんできたということだ。
「国と言ったら国だろ」という現代の日本で生きてきた自分の感覚では、頭ではわかっても実感はしにくい。「国のアイデンティティ」に関する問題が大きく絡んでいる。
以前「民族のアイデンティティの確立」をテーマにした、アルバニアの小説「誰がドルンチナを連れ戻したか」を読んだが、ミャンマーはアルバニアよりも状況がさらに複雑だ。
【小説感想】アイデンティティの確立が出来ないアルバニアの苦難を描く イスマイル・カダレ「誰がドルンチナを連れ戻したか」 - うさるの厨二病な読書日記
長年、国連で紛争地域の調停を務めてきた人でさえ「こんな複雑な地域は見たことがない」と言う複雑さだ。
読んでいるだけで頭がこんがらがるくらいの複雑さで、一回では理解しきれなかった。メモを取りながらもう一度読んで、ようやくこういうことかと理解した。
以下は自分が理解した限りのごく簡単なミャンマーの歴史と状況だ。これをどう解決するか、どうすればいいのか、というのは、自分がもしミャンマーで生まれていたらどう考えていただろうと思うと頭が痛くなる。
ミャンマーの歴史
18世紀半ば
ビルマ語を話す戦士王の王朝が内陸で台頭して、イワラディ渓谷周辺を統一し、ヤンゴンを構築。現在のラオス、タイ全域を含む一帯を支配する。
1783年
ボードーパヤー王が自らの民族を「ミャンマー」と呼称。
1784年
ボードーパヤー王が、古代ビルマ語を話す仏教徒が多く住むアラカン王国を征服。ベンガルに住んでいたイスラム教徒を含む奴隷が、北アラカンに多く定住するようになる。(このイスラム教徒の末裔が、ロヒンギャである)
1885年
第三次英緬戦争。
英国が勝利し、ビルマ君主制を廃止する。王族はインドに追放される。
この後の統治機構はインドから流入されたもので、ビルマの伝統や文化は考慮されなかった。この歴史の寸断が、後々までミャンマーの国家構築に影響を与える。
近代ビルマは「軍隊による占領」という形で誕生する。
イギリスはビルマをインドの一部「ビルマ州」として、三つの地帯に分けて統治する。
①イワラディ盆地とアラカン地域は、イギリス官僚が直接統治する。
②①の周囲の丘陵地帯。
③奥地の山岳地帯。非管理地帯として放置したため、様々な武装集団が生まれる場所になる。
この時にインドの一部としてプラス三つに地域をわけて統治したことが、ビルマ人の記憶、アイデンティティに断層を設けることになり、国家構築の困難が増す。
1937年
イギリスが、ビルマをインドから分離する。
1948年1月4日
ビルマがイギリスから独立。
1948年2月
イギリスによって残された社会主義政権に、共産主義者が叛乱を起こす。
アラカン地方では「ムジャヒド党」武装組織が叛乱。
独立共和国の設立を求める。
この他にも「カレン民族同盟」(KUN)など、多くの少数民族の組織が叛乱を起こし、独立を要求する。
多くの少数民族が暮らすミャンマーは、何によって「国」を形成するかが大問題になる。
また多くの民族組織は、戦中にイギリスや日本よって軍事訓練を受けていたり支援を受けているので、それがさらに戦闘を激化させるという背景がある。
1962年3月2日
ネウィン将軍が「ビルマ革命評議会」を設立し、軍事政権が誕生。
ネウィンが大統領になる。
民族アイデンティティを「国」に帰属させるために、「タインインダー(土着民)=国家に属する民族」という概念が生まれる。
これはスターリンによる「共通の言語、領土、経済生活、および共通の文化を通して現れる心理的気質の基盤の上に築かれる、歴史的に構成された不変の共同体」という国家の定義に基づいて作られた。
「タインインダー」という語でアイデンティティを統一し、社会主義国家を建設した。
1971年
バングラディッシュの建国。
インド・パキスタン戦争。
東パキスタンから数百万人がインドに逃れ、アラカンにも難民が流入した。
1978年
「不法移民」の根絶を目的とした「ナミガン」と呼ばれる軍事作戦が行われる。
20万人ちかい難民がバングラディッシュへ。(今日のロヒンギャ問題は、バングラディッシュやパキスタンからのイスラム教徒流入に対する、アラカンに住む仏教徒住民の恐れという文脈なしには理解できないよう)
1988年8月8日
ネウィン大統領が辞意を表明。
反政府デモ「8888蜂起」が勃発。→失敗。
社会主義国家体制が廃止され、国軍は「国家法秩序回復評議会」(SLORC)と名付けられた暫定軍事政権によって支配を確立。
アウンサンスーチーが「国民民主連盟」(NLD)を設立。
1989年4月16日
ビルマ最大の反政府組織、ビルマ共産党が瓦解。
北部の高地でカチン族やワ族を支配して独自の勢力圏を持っていたが、左翼の指導者を追い出して、麻薬売買などに手を染めるようになる。
高地にはこの他に、コーカン族の華人ローシンハンの民兵組織なども存在する。
1990年
総選挙でNLDが勝利。→スーチーが自宅軟禁される。
ビルマからミャンマーに国名が変更。「ミャンマー」は、多数派のビルマ人だけを指す言葉で少数民族が含まれないため、本書では「ビルマ」を使用している。(ビルマこそビルマを指す言葉ではないのか? という疑問があるが、それについては書かれていなかった)
1992年
タンシュエが暫定軍事政権のトップになる。
国際社会と協力して、国の工業化に努める。
本書の著者は特にアメリカのビルマへの経済制裁に対して、かなり批判的だ。
それから数年のあいだに、『ボイコット・ビルマ』運動がアメリカ全土に急速に広がった。
南アフリカのアパルトヘイトに抗議する投資撤収運動が成功裡に終わり、新たなターゲットを探していた学生組織にとって、ビルマは恰好の対象だった。
(「ビルマ 危機の本質」タンミンウー/中里京子訳 河出書房新社 P66/太字は引用者)
ビルマは「正しいことをする」ことにおいて何らマイナス面がない場所のように思えた。
ビジネス面での利害関係もほとんどなかったうえ、ビルマが戦略的に重要になるという打算も「まだ」なかった。
(「ビルマ 危機の本質」タンミンウー/中里京子訳 河出書房新社 P89/太字は引用者)
結局、経済制裁によって痛手をこうむるのは貧しい人たちである、欧米はビルマ独自の事情を知らずに、ただ「民主化」をひたすら押し付けてくるところに苛立ちを感じているようだ。本書を読むと無理もないと思う。
民主化以前に国としてまとまる基盤がない、二十近い武装組織が独自の支配地域を形成している、など問題が山積みだ。
1990年代~2000年代初頭
「カチン独立軍」が停戦協定に合意。
「カレン民族同盟」が停戦協定を拒絶。過酷な叛乱鎮圧作戦の矢面に立たされる。
少数民族武装組織と少しずつ停戦協定を進めようとするが、なかなかうまくいかない。
「カチン族」は翡翠鉱山があるカチン州に居住する民族で、キリスト教徒が多い。
「カレン族」はビルマ南部全域に広がって暮らす、一部キリスト教徒の民族。
この辺りから段々、メモと取らないと訳がわからなくなってくる。
2002年~2004年
タンシュエの改革。新首都ネピドーを建設。
2007年
サフラン革命。元々は経済的貧困を訴える暴動だったようだが、国際社会の文脈では「民主化を求める運動」に変換させられてしまった、と著者は訴える。
国連は、本来であれば紛争防止と平和構築を目指すべきなのに、ミャンマーにおいては「民主化」ばかりを重点に置くので、なかなか問題が解決しない。
この状況でいきなり民主化と言っても話が混乱するだけで、各民族の和平と合意形成が先、というのはまあそうだなと思う。
2008年5月2日~3日
サイクロン「ナルギス」が上陸。甚大な被害をもたらす。
2009年8月
ポンシャーチンの民兵組織「ミャンマー民族民主同盟軍」が国境警備隊になることを拒否し、ビルマ軍との間に戦闘が勃発する。
「ミャンマー民族民主同盟軍」は、ヘロイン製造と深く結びついている組織で、特に高地にはこういった組織がいくつかあり、独自の支配圏を確立している。
軍事政権はこういった組織に国境警備隊の地位を与えることで取り込もうとしたが、いくつかは拒否したため戦闘が起こる。
2010年ごろ
カチン族との間の緊張が急速に高まる。
十年前に和平協定に合意出来たはずのカチン族との間も緊張関係になる。
2010年9月
選挙活動期間に入る。主な政党は
・タンシュエが下の世代の将軍たちに作らせた「連邦団結発展党」(UsDp)
・NLDが選挙のボイコットを呼びかけたために分離した「国民民主勢力」など四十党。
2010年11月7日
総選挙とタンシュエの退任。
UsDpが圧勝するが、不正選挙の疑いがもたれている。
議席は75%が選挙で選ばれ、25%が国軍が任命する。
議会によって大統領が任命され、大統領が大臣を任命。ただし、国防・国境・内務の各大臣は、軍人の中から最高司令官が選ぶ。
国軍が25%の議席を持ち、防衛に関する大臣の任命権も持つためにかなり力が強いということがわかる。
2011年1月末
軍部ナンバー4だったテインセインが、下馬評を覆して大統領に就任。
大統領になるだろうと思われていたナンバー3のシュエマンは、下院議院議長となる。
国軍のトップに、タンシュエの愛弟子のミンアウンフラインがつく。
テインセインはNLDも含め、各政党の協力を求め、旧政権からの脱却をはかる。
2011年8月18日
テインセイン大統領が、反政府勢力のリーダーたちを、和平交渉のテーブルに招待。
「カレン民族同盟(KUN)は色よい反応をする
「カチン独立機構(KIO)」とのあいだでは緊張が高まり、全面戦争へ。
中国の介入で戦争が激化。
中国はビルマが欧米に近づくことを警戒して、事あるごとに介入する。
特に北部の高地の状況については、中国との関係を抜きにしては語れない。反政府共産主義組織を支援したり、国軍の攻撃を逃れた武装組織を匿ったりなどをしている。
2013年5月
カチン族と停戦合意。
ただ中国の支援などを失うために、歳入の手段が問題となる。
2012年初頭
「チン民族戦線」が停戦合意に署名。
「カレン民族同盟」と「カチン独立機構」と「チン民族戦線」がある。聞いているだけでも頭がこんがらかる。
2013年11月
17の少数民族軍事組織のリーダーがライザで会合。
・(各民族に高度な自治権を認める)フェデラル連邦制。
・連邦軍の設立。
・タインインダーの権利を守る。
などが話し合われる。
「ワ州連合軍」などは、交渉に参加せず。
2015年11月8日
総選挙。NLDが圧倒的な勝利。
アウンサンスーチーは息子が外国籍であるために、憲法上大統領になれない。
改憲のためには25%の議席を持つ国軍が同意しなければならないが、国軍は全ての軍事同盟との和平合意まで、憲法改正は応じられないと言う。
それは事実上、不可能ではないかとこの本を読んだだけで思ってしまう。
2016年3月
ティンチョーが大統領に就任。
この人はスーチーの友人で、事実上スーチーの代理として大統領に就任した。
2016年10月9日
ARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)による暴動。
一般人を巻き込んでの暴動に対して、国軍が叛乱の鎮圧に乗り出す。
アラカンにおけるイスラム教徒と仏教徒の潜在的な対立があった上に、この時はフィリピンでISILと結んだ民兵がフィリピン国軍と戦闘を起こしていたため、SNSで北アラカンがイスラムのテロリストによって侵略されるという言説が拡散された。そのため、アラカンの仏教徒の恐怖や恐れが煽られていたらしい。
身につまされる。
2017年9月19日
国際社会にアラカン問題に対応しないスーチーへの失望が広がるが、ビルマ国内ではARSAを掃討する国軍への称賛が広がっていた。
アウンサンスーチー政権と国軍は、バングラディッシュとの国境に壁を作ることを約束する。
ソーシャルメディアでは、ARSAが引き起こした暴力を西側諸国が認めようとしないのは、サウジアラビアと西側諸国の陰謀の一環であり、アラカンを不安定にして数十万人におよぶ新たな「ベンガル人」移民をビルマに受け入れさせるためだという憶測が飛び交った。(略)
11月にロヒンギャ危機に関して「ワシントン・ポスト」紙の取材を受けたアウンサンスーチーは、「この一件は何から何まで煩雑です」と答えた。
(「ビルマ 危機の本質」タンミンウー/中里京子訳 河出書房新社 P302)
典型的な陰謀論だが、陰謀論が生まれる背景には、西側諸国がミャンマーの現状や歴史に鈍感かつ無関心というのはあると思う。
結局自分たちの理想を押し付けるだけで、現地のことや歴史には何も関心を払わないので、ビルマの人たちの間では「国際社会」に対する不信感が蔓延しているのではと感じた。
その隙をついて中国がミャンマーに接近する。
2020年11月8日
総選挙でNLDが大勝。
2021年2月1日
国軍がアウンサンスーチー及びNLDの指導者を逮捕する。
新たな反政府組織が数十台頭する。
ミャンマーはなぜこうなったのか
自分が理解した限りだと、植民地支配時にインドと合わせて支配したり、ビルマの中を分割統治したりしたため、ビルマの一本の歴史や帰属意識が分断されてしまった。
その中の管理していなかった地帯で、武装集団が生まれたり、中国に支援された共産主義集団などが潜伏したりなど、国とは名ばかりで独自の支配圏が共存する状態がずっと続いていた。
その武装集団に対抗するために軍が強い力を持ち、その集団と時に共存したり、時に戦闘したりすることの繰り返しがビルマのこれまでの歴史である。
本書の著者のタンミンウーは、この状況を理解した上で、まず国家のアイデンティティを形成することと経済問題を解決することが重要だと主張していて、国際社会は一足飛びに「民主化」を求め、経済制裁によって貧しい人たちの生活をさらに苦境に追いやることを批判している。
しかし、そこには根深い問題があった。
和平プロセスは、新たな政権と、ビルマ国軍の仇敵との停戦を模索するものとして始まった。
だが、このプロセスに含まれるべき者は誰なのだろうか? 内戦は、単に政府と反乱軍とのあいだの軍事衝突なのか、それとも多数派のビルマ人と少数民族のあいだの民族間闘争なのか?
重きを置くべきは、誰の声なのか。そして、正当とみなすべきは、誰の声なのだろうか。
(「ビルマ 危機の本質」タンミンウー/中里京子訳 河出書房新社 P224/太字は引用者)
理解することが精一杯な状況で、これをどうすればいいのかと考えることは難しい。
ただそれでも、国民が選挙で選んだ人を軟禁し、軍事力で人を抑えつけることは認めることは出来ない。
一般市民と武装組織の構成員の見分けがつかない、そもそも明確な区分があるのか。
そういう問題もあるかもしれないが、子供も含めて街や村ごと殲滅するという手段は許せない。
結局は宗教や民族は関係がなく、犠牲になるのはいつも弱くて貧しい人ばかりではないか、ということがやりきれない。
そういう人たちが自分たちの声を政府に届けられるのが「民主化」だ。確かに物事はとても複雑なので順番はあると思うが、平和になって誰もが自分の声を自由に上げられるような状態になって欲しい。
和平交渉が何度もとん挫しているのはわかるが、それでも対立して力で押さえつけたら「ひとつの国としてまとまる」という理想もどんどん遠のいていくばかりだ。
この本を読んでも、ミンアウンフラインがなぜクーデターを起こしたのかはよくわからなかった。
国軍の力が低下したら、各種武装勢力が抑えきれないということかとも思ったが、そのことはアウンサンスーチーもわかっていて国軍に協力を求めているのだから、協力すればいい。
それをしないということは、結局は自分たちが権力を手放したくないだけではないか。
こういう国では、「多様性」という言葉がとても重い。たくさんの人が犠牲になって血を流して争い続け、不正を目にしながら、それでも何とか追及しなければならないものなのだ。
正直受け止めきれないくらい複雑で重いものだが、とりあえず知るだけでも少しだけ前に進むと思いたい。