うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【漫画感想】「アスペル・カノジョ」を6巻まで読んだが、物語の構図に大きな疑問がわいて読めなくなった。

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*最終巻まで読んで、色々と考えた最終的な感想

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*タイトル通り批判的な感想です。

「アスペル・カノジョ」を6巻まで読んだ。

どうにもこうにも読むのが苦痛になったので、読むのを止めた。

その理由を自分の頭の整理がてら書きたい。

 

読むのを止めた理由は、「発達障害の描写」とは関係がない。むしろその点については、発達障害の一事例を知れたのでとても良かった。

横井や恵に自分と重なる点が多くあり、作内で二人も言っているが、「自分だけじゃなかったんだ」と思うことが何回かあった。

 

この話が「発達障害自体がテーマ」(つまり恵のほうが主人公)だったら、たぶん最後まで興味を持って読んだと思う。(実際、恵の症状を知る三巻くらいまでは読んでいて面白かった)

自分にはこの話が「発達障害自体がテーマ」とは思えなかった。そこに読むのを止めた理由がある。

自分がこの話で最も気になった点は、「物語の真の構造*1が隠蔽されているところ」*2だ。

 

「アスペル・カノジョ」は「横井から恵に対する信仰型恋愛」の物語である。

「アスペル・カノジョ」は典型的な「信仰型恋愛」の物語である。

三巻で横井が恵の寝顔を見て

こんなに物が溢れて通販で何でも手に入る時代に、電子レンジもポッドもないボロボロの部屋に大喜びで住み着いて、欲しい物や食べたい物を一つも要求することもなく、ただ安眠と発作のない日だけを求め続ける女の子に、十分なものを与えてあげられているのかな。(略)

でももう傷は増やさせない。

(引用元:「アスペル・カノジョ」3巻 萩本創八/森田蓮次 講談社/太字は引用者)

こう独白するシーンがある。

 

「寝ている(何も出来ない)恵に対して、横井が一方的に『与えてあげる』『(傷を増やさせないために)献身を行う』」

→何もしない(無力で何も出来ない)対象に対して、信仰者が自己犠牲的に一方的に働きかけ続ける。

この構図は「信仰型恋愛」の原型だが、これが「アスペル・カノジョ」の本当の構図である。

(引用元:「アスペル・カノジョ」3巻 萩本創八/森田蓮次 講談社)

モノローグのあと、横井が恵の傷にキスをするのも象徴的だ。

 

「信仰型恋愛」は、本質的には恋愛モノではない。

恋愛のガワをかぶせた、「罪悪感の払しょくを目的とした自己完結型救済の物語」だ。

 

「信仰型恋愛」とは何か。

信仰型恋愛の原型は、

①巨大な罪悪感を抱えた信仰者がいる。

②信仰者が、ある人物(神)との出会いによって啓示を受ける。

③ひたすらその神への信仰に励むことで罪悪感を払拭して自己救済を目指す。

である。

「容疑者Xの献身」「ワンダと巨像」「おばみつ」などが代表的であり、新海誠の作品は詳細は違えどほぼこれだ。

恋愛のガワを被っている場合、男が「信仰者」であり女性が「神」であることが圧倒的に多い。*3

 

「信仰型恋愛」は、困難な状況に陥っている対象のために信仰者が奔走する、自己の全てを捧げて献身するというのが基本的な流れだ。

対象である「神(多くの場合女性)」は、基本的には存在しているだけでいい。

信仰者が勝手に啓示を受け、勝手に尽くし、勝手に救われる。

そういう話である。

 

信仰者は一方的に尽くしているにも関わらず、その献身の果てに何故か「自分のほうが救われた」と感じる。

例えば「容疑者Xの献身」では、石神が靖子に「自分のほうが救われた」と言う。普通に考えればおかしな話だ。

靖子は石神に何も与えていない、どころか、自分のために犯罪までしてくれた石神を薄気味悪くすら思っている。

 

なぜ「一方的に献身することで救われる」という構図が成り立つのか。

「鬼滅の刃」で伊黒が独白している通り、「クズで最低な存在である自分が、少しだけ『いいもの』になれた気がするから」だ。

画像1

(引用元:「鬼滅の刃」22巻 吾峠呼世晴 集英社)

 

信仰型恋愛を行う人間は、ベースとして「この世界にとって、自分はマイナスの存在である」という大きな罪悪感を持っている。

だからその罪悪感を払拭しなければ、この世界に存在出来ない。

命をかけて鬼と戦って、ようやく「少しだけいいものになれた気がする」程度なのだ。

もっとすさまじい自己犠牲でなければ、彼らが持つ罪悪感と釣り合わない。

湯川が指摘した通り、「容疑者Xの献身」では端から見れば、石神は「すさまじい犠牲を払った」。

それにも関わらず石神は靖子に「自分のほうが救われた」と感謝を述べている。

石神は靖子にすさまじい献身をすることで、ようやくこの世から自分を抹殺したくなるほどの罪悪感から救われたのだ。

 

信仰の対象は、「信仰者が献身をするために」困難な状況に陥る。

信仰型恋愛の主人公は、このように自分が背負う巨大な罪悪感を払拭する対象を求めている。そしてその対象を見つけた時に、「啓示」を受けるのだ。

石神や伊黒や新海作品の主人公たちの多くが、会った瞬間に相手の女性を好きになるのはそのためだ。

 

なぜ、彼女たちの「困難」が始まる前に、主人公たちが「啓示」を受けるのか。まだ彼女たちは困難な状況に陥っておらず、罪悪感を払拭できる要因はないはずなのに。

この構図を物語の上位層からメタ視点で見た場合、順番が逆になっている。

主人公の罪悪感を払拭するために、彼女たちは困難な状況に陥るのだ。

 

巨大な罪悪感を持つ主人公→それを何とか払拭したいから「啓示」を受ける→主人公が啓示を受けたがゆえに、対象の人物は困難に陥る。

 

物語内の時系列が転倒しているだけで、物語の因果自体はこうだ。

「信仰型恋愛」の肝はこの因果にあり、徹頭徹尾主人公(信仰者)の内面世界の都合のみで動いている話なのだ。

そして「徹頭徹尾主人公の内面世界の都合のみで動いていること」を、主人公たちはメタ視点では気付いている。

だから自分の都合に巻き込んだことに対する罪悪感から、いっそう献身や自己犠牲にドライブがかかる、こういう仕組みになっている。

 

「アスペル・カノジョ」は、「横井→恵に対する信仰型恋愛」という物語本来の構図を隠蔽している。

(引用元:「アスペル・カノジョ」 萩本創八/森田蓮次 講談社)

「アスペル・カノジョ」はこのシーンに限らず、「横井が一方的に恵の面倒を見ている」と示唆するセリフや展開が頻繁に出てくる。

二人の関係が「横井→恵」の一方的な関係性であることは、物語の中で明示されている。

 

前述したように、「横井→恵の一方的な献身」は横井が望んでいることだ。(恵は、この構図に何とか抗おうとしている。物語という巨大な力の前での無力さは、見ていて辛い)

表層上に見えている「恵が困難を抱えているから、横井が献身する→二人の関係が対等ではない」は、本来の因果が転倒している。

物語の真の構図においては、「横井が献身することを望んでいるから、恵は困難を抱えている」。

この真の構図は、横井の深層から漏れ出ている。

(引用元:「アスペル・カノジョ」 萩本創八/森田蓮次 講談社)

この時の横井の心境の描写こそが、この話の真の構図だ。

メタ視線で見たときの比喩的な意味では、恵に困難な状況を与えることが、まさに「足を切り落としている」のだ。*4

信仰型恋愛の主人公たちは、自分が献身したいがために、献身の対象を困難な状況の中に閉じ込める。罪悪感メーターが振り切れると、本当に(物理的に)閉じ込めたりする。(逆方向に振れると逃げ出す。ダクソⅢのカリムのイーゴンパターン)

 

信仰型恋愛は、本来は恋愛ではない。

主人公が自分の勝手な都合のために、相手を偶像として自分の内面世界に閉じ込め、一方的に働きかけ続けるというかなり身勝手、かつ不気味で気持ち悪い話だ。

「容疑者Xの献身」の靖子のように、石神を不審に思い、忌避するのが当たり前なのだ。

 

自分が「アスペル・カノジョ」を読み続けるのがキツいと感じたのは、この構図に無自覚な点だ。(※6巻までの時点)

「二人の関係が対等ではないこと」「主従関係のようになりがちであること」を、恵の困難に「物語自体が」押し付けている

繰り返すが、恵が発達障害を持つために二人の関係が対等にならないのではない。

二人の関係を対等にしないために、恵が困難を抱えているのだ。

横井が「二人の関係が対等ではないこと」にあたかも問題意識を持っているかのように振る舞うのは、「横井→恵の信仰型恋愛」という本来の構図を隠すためだ。

だから横井が一方的に恵を褒め(評価し)、横井が恵の頭を撫でるのだ。

 

読み進めるのが難しいと思った決定打は、「自分がこんな独占欲がある俗物だとは思っていなかった」というシーンである。

これを読んで、この話の本来の構図を横井が認めることはないだろうと思った。

もちろんこの先、自分の中の罪悪感を認めて本当の意味で恵と対等に向き合う可能性はある。最後まで読んだらそういう話なのかもしれない。

だが最後まで読んでそうではなかった場合、読んでもストレスしかない。

 

「アスペル・カノジョ」を読めなくなったのは、「『横井のためにある物語』であることを横井が認める可能性がない」と思ったから。

自分から見ると、「アスペル・カノジョ」は「横井の自己救済のための物語」だ。

「自分から相手への一方的な作用」しか基本的には考えていない。そしてそれはすべては自分自身の救済のためである。

「本来はそういう話であるのに、その構図の隠蔽のしかたが『自分の問題でしかないことを恵の問題にすり替えている』」

「その理由が、自分を『俗物(独占欲がある→信仰型恋愛である)』と認めたくないから」

「そのことを認める可能性はないだろう」

自分はそう感じたので読むのは止めたが、冒頭に書いた通り、発達障害の一事例を知るためにはいい漫画だと思った。

 

*気が変わって最後まで読んだ。引き続き批判的な内容です。

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追記&余談

おばみつは信仰型恋愛の中でも、かなり構図が特殊で伊黒と甘露寺さんは別次元にいるのではないかと考えている。

「困難に閉じ込めている」のではなく、次元を分けているのだ。自分が信仰型恋愛の中でおばみつが最も好きなのは、この気遣い?があるからだ。

「お前は何を言っているんだ……」と興味を持ってくれたかたは、良かったら読んでもらえると嬉しい。

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*1:と自分が考えている

*2:隠蔽されていても、むしろ隠蔽されているからこそ面白い物語もあるが、この話はそうではない

*3:これも何故かということは色々あるが、今回は関係ないので割愛

*4:ひどい言い方だが、そもそもこの時点での話の構図がこうなので他に言いようがない。ちなみにこの話の構図がそうだというだけで、現実には何も関係ない。