うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【漫画感想】「44歳処女の末路」に自分がリアリティを感じない理由。

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noteのほうで、自己肯定感の低下には罪悪感ルートと無価値感ルートがあるのでは、という自分の考えを書いた。(※あくまで個人的な考え)

罪悪感と無価値感にまつわる、人間関係で生じやすい問題について考えたこと。|うさる|note

 

話を簡単にまとめると、

 

罪悪感ルート

「自分は状況を何とかする力があるのだから、責任がある。状況を何とかできなければ存在はマイナスである」という感覚から生じやすい。

高じると「価値の搾取」という支配を行いやすい。こじらせると被害者としての自分を一切認められなくなり「俺は強い。俺は悪である」という猗窩座のような状態になる。

 

無価値感ルート

「自分は弱く、世界を変える力がない。人から選ばれなければ何も価値がない」という感覚から生じやすい。

高じると「罪悪感コントロール」という支配を行いやすい。こじらせると加害者としての自分を一切認められなくなり、「可愛そうな自分に、世界すべてが償う義務がある」という発想になる。

 

話の便宜上ざっくりと分けると*1「罪悪感ルート」をたどりやすい人は、「無価値感ルート」にはピンときづらいと思っている。逆もまた然りである。

 

#オリジナル 【創作】44歳処女の末路① - りこのマンガ - pixiv

はてブで話題になったこの漫画は、典型的な無価値感ルートだ。

ベースに「選ばれることに価値がある」という受容姿勢があり、選ばれなかったため*2に無価値感が高じて、こじらせてしまった話だ。

 

自分は「44歳処女の末路」にまったくピンとこなかったが、それはこの漫画が描いているものに接続するものが自分の中にないからだ。

二年以上前に話題になった、「普通の人でいいのに!」もまったく同じ感想だった。

普通の人でいいのに! - 冬野梅子 / 【読み切り】普通の人でいいのに! | コミックDAYS

自分から見ると、「44歳処女の末路」と「普通の人でいいのに!」はだいたい同じことを描いている。

 

実感できなから、「自分にとっては」リアリティがない、ピンとこないという感想になる。

ただそれはあくまで「自分にとって」であって、二作とも「刺さる人」がたくさんいるからこれだけ話題になったのだろうということは分かる。

 

創作は、その創作が描いているものに自分の中に接続するものがあるかどうかによって体感が変わる。→リアリティが生じるかどうかが変わる。

「主観的にリアリティが生じるか」「客観的にリアリティがあるか」は別の問題だ。

例えば自分は「進撃の巨人」に強いリアリティを感じる。

(ということからもわかる通り、自分の内面に接続するイメージがあるかは、現実の属性とは余り関係がない場合がよくある。「44歳処女の末路」にリアリティを感じるからと言って、その人が44歳の処女とは限らないし、リアリティを感じないからと言って属性がまったく被っていないとは限らない。というのが自分の考え。)

客観的にどうかはともかく「自分にとっては、そういう体感が生じる」という事実がとりあえずある。

主観的に強烈なリアリティが生じている場合、現実から受け取る感覚さえ凌駕することがある。

だがそうではない人にとっては「え? ファンタジー世界で巨人を倒す話にリアリティがある?」「面白いけれどリアリティはない」となると思う。

 

客観的なリアリティという理屈抜きで「これが自分が見ている世界だ」「これが自分が生きている世界だ」と思う作品がある。

創作が好きな人には、誰しもそういう好き嫌いを超えた「自分にとって特別な話」がひとつやふたつ、三つや四つくらいあると思う。

 

自分は「自分にとってピンとこない話」に対して、「これは私のための物語だ」というすさまじいリアリティを感じている人が書く感想を読むのが好きだ。

その創作への接続のしかたを教えてもらい、自分とはまったく違う角度から世界を見ている感覚になるのだ。

その感想を読んでから、もう一度その視点で作品を読むと、にわかに視界が開けて「違う世界に行けた」という感覚になったりする。

こういうことがあると、ネットっていいよなと思うのだ。

 

余談:「進撃の巨人」について

自分にとって「進撃の巨人」は、「生きているだけで加害者」という強烈な罪悪感に対しての自己葛藤の話だ。

「進撃の巨人」について本当に思ったことを、やはり書いておきたい。|うさる|note

読んでいる人の内部に強烈にリンクし、こんなものがあるとは自分自身も知らなかったと思うものを引き起こす。

多くの人にそう思わせる作品が、傑作として世に残るのだと思う。

 

親から子への価値の搾取を描いた「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」。

罪悪感も無価値感も、最終的に引き受けた人が、周囲から理解不能の「悪」「怪物」のようになってしまう。

こういう現象は見ていてしんどい。

 

*1:人によってグラデーションがあり千差万別である、という前提はとりあえずおいておいて。

*2:そして親にひどい扱いを受けたために。この辺りはnoteで紹介した「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」の子供たちに重なる部分がある。