言及ありがとうございます。
記事を読んで「確かに最後まで読んでみないとわからないな」と思ったので最後まで読みました。
「アスペル・カノジョ」は「信仰型恋愛」なのに普通の恋愛のように恵が側にいて交流も出来るところがその型を隠蔽している、と思ったのですが、最後まで読んで「(自分が考える)信仰型恋愛」ではない、と納得しました。
この点については訂正します。
自分が考える「信仰型恋愛」は、
①信仰者(主体)しか、その世界に存在しない。
②主人公たちは相手の女性を閉じ込める力があるから、「交流・接触すること」は禁忌である。
基本的にこう考えています。
エヴァンゲリオン以降からゼロ年代エロゲまで本当によく好まれたモチーフです。
なので、自分が考える「信仰型恋愛」はよしきさんが考える「信仰型恋愛」とはたぶん違うのでは、と推測しています。(少なくともエヴァは自分の中では「信仰型恋愛」にはまったく当てはまらないので、そうじゃないかなと)
この辺りは、前回の自分の説明が言葉足らずだったと思います。済みません。
それ以外の結論は余り変わっておらず
さらにネタバレを重ねますとうさるさんの問題について、実は解決されてます。
すみません、これも解決されませんでした。
自分がこの話についてどうしても気になるのは
「なぜ横井がこの話は自分自身の問題と認めて、主体としてこの物語を語らないのか?」
です。
これが最初から(枠組みは違えど)ずっと気になっていて、結局最後まで読んでも解決されませんでした。
たぶんですが、よしきさんはこの話を「横井と恵、二人の物語だ」という枠組みで見ることも可能だと思っているのではと推測しています。
それ以上に恵というヒロインが強くて物語の枠組みを越えていった。
自分は、よしきさんとは逆です。
恵が頑張れば頑張るほど(主体を背負えば背負うほど)横井の問題が隠れ「俺たち」になっていく
恵は横井を自分の意思を持って引きずり回します。横井はただ彼女の行動を後ろから追いかけて支えるだけです。
まさにこの構図がどうしても気になるのです。
なぜ、横井が最後の最後まで「俺も」という「自分と恵のワンセット」でしか自分の苦しみを語れないのか、恵に従属した形ではなく、「俺が傷ついていた」(横井がそれを知るために、この物語があった。物語が横井の分身である恵(←作内で指摘がありましたが)に問題の大半を背負わせた)と認めないのか。
これを認めてようやく横井は、本来この物語で語りたかった「他人(恵)を分析するのではなく、自分自身の苦しさを主体として語る物語」のスタート地点に立てるのでは、というのが自分の考えです。
ただ自分の考えの前提となる、「この話は本来、横井が主体となって語るべき話だ」というのは(細かい理由は色々上げられますが)根本的には直観としか言いようがないので、よしきさんがこの話から直観的に感じたものとは違うのだろうと思います。
そこが変わると話を見る目がガラリと変わるところが、記事を読ませていただいて面白かったです。
自分が横井に厳しすぎるのかな、と最終巻まで読んで少し優しい気持ちになれました。
ちゃんと完結しているのだから、どうせ感想を書くなら最後まで読まないと駄目だな、と反省しました。
その点もよしきさんにとても感謝しています。