うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

創作で、キャラを分裂させて自己葛藤を描くときに重要になる「フェアさ」とは何なのか。

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*独自解釈に基づく話です。

*この記事には、ドラマ「Nのために」と漫画「アスペル・カノジョ」のネタバレが含まれます。

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「アスペル・カノジョ」は何かに似ていると思って、思い出したのがドラマ「Nのために」だ。

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自分の中ではこの二作は、両方とも「自分が持つ『生きづらさ』から避難するために一時的に分裂していた『自己』を、統合させる過程の話」だ。

「アスペル・カノジョ」では、メタ横井が自身の生きづらさを仮託した恵を切り離すことで、とりあえず作内の横井を生き延びさせた。

「Nのために」では、希美が生きるために捨てた「母親を捨てたい気持ちと捨てる罪悪感」を、西崎が引き受けている。

 

「この二作は似ている」ということは後から思いついたのに、感想ではまったく同じことを書いている。

「アスペル・カノジョ」の感想*1

自分はこの物語が構造的に含む、このアンバランスさ、アンフェアさがどうしても気になる。

このアンフェアさこそが横井が「俺の苦しみ」を主体的に語れない原因であり、恵の問題に隠れている限りは横井はいつまでたっても「自分の問題」を語り出せないのでは?とずっと思っていた。

こう書いている。

「Nのために」の感想は、

ドラマ「Nのために」がすごいと思うのは、物語内で語られることに対して誠実なところだ。

こう書いている。

 

「フェア」「誠実」と言葉は違うが、気にしていることは同じだ。

「自分自身を都合よくカスタマイズするなど出来ない」

「自分にとって都合の悪い部分も含めて自分なのだ」

そんなに都合よく自分をカスタマイズできるなら、自己葛藤そのものが生じない→自己葛藤が存在しないのだから、この話もそもそも存在しない。

この因果が、自分が自己葛藤がテーマの話においてこだわる「フェアさ」だ。

 

どんなに自分にとって都合の悪い部分であっても、「自分そのもの」を殺すことは出来ない。

一時は切り離せたように見えても、必ず自分に舞い戻ってくる。

希美が母親を振り切って出て来た東京で西崎に出会ったように、生きづらさを忘れたふりをして生きていた横井の下へ恵がやってきたように。

 

「アスペル・カノジョ」で「恵は分身を求めたのか?」という高松の問いに対する、

「(恵が)自分を見ないと俺のことも見えなかったはずです」

という横井の答えは言い得て妙だなあと思う。

「自分にとって都合が悪い自分も受け入れないと、自分自身のことを結局は見失ってしまう」

これはほんとにしんどいことだよなあ、と思う。

「自己葛藤の話」は「都合の悪い部分も含めて自分を見る」というしんどさが求められる。

 

自分がずっと「アスペル・カノジョ」に腹を立てていたのは、この話は「自分の生きづらさを他者に預けて晴らそうとする物語なのではないか?」と思っていたからだ。

恵が背負っている「生きづらさ」を恵が乗り越えて解決すれば、横井の生きづらさもおのずと解決されるという構図は明らかにおかしい。

「自己葛藤を他人に預けてしまうことで自己実現する話」というのは、字面からして矛盾している。

百歩譲って自分が自己葛藤が苦しく出来ないのはいい。だがそれならば、他人(恵)にもやらせるべきではない。

そう思って批判していたが、この話は作内の横井も恵も物語上位層にいるメタ横井の分身であり、作内の二人の交流がメタ横井の自己葛藤を表していたのだと気付いて、ああなるほどそういう話だったのか、と納得した。

 

「Nのために」は、「アスペル・カノジョ」のメタ横井のような統合人格が存在しないので、「一人」になるためには希美か西崎のどちらかが消滅しなければならない

だから、結末では「葛藤を預けていたほうである希美」が近い将来死ぬことが示唆される。

作内だけで見れば悲しいし成瀬と幸せになって欲しいと(凄く)思うが、物語の大枠である「母親の支配からどう逃れるか」というテーマで見ると、これは仕方がない。

自己は物語上(自己葛藤する時)は便宜上分裂できても、葛藤(物語)が終われば必ず一人に戻らなければならない。

結局は、自分は自分一人だからだ。

 

「Nのために」も「アスペル・カノジョ」も、上位構造を見せない作りだから凄く面白かった。

またこういう話を読みたいなあ。

 

*1:アンフェアというのは自分の勘違いで、ちゃんとフェアな話だった。