うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

ポストコロニアルフェミニストによる西欧知識人への告発。「サバルタンは語ることができるか」

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インド出身のフェミニズム批評家スピヴァクの代表作「サバルタンは語ることができるか」を読んだ。

この本は1972年に公開された「知識人と権力」というフーコーとドゥルーズの対談……二人を代表とする西欧の知識人への批判として書かれている。

独特の言い回しが多い思想的論文の中では比較的読みやすいものの、それでも意味がつかみづらい箇所がところどころあった。

自分が読み取れた限りの内容で、感想を書きたい。

*正確な内容は、原文を読まれることをお勧めします。

 

各章の内容

第一章

西欧知識人は思考の枠組みとして、「自分たちは西欧人である」という意識が抜け落ち、あたかも「透明な存在」であるかのように振る舞う。

そのため現在の「グローバルな資本主義」「労働の国際分業化」という要素、地政学的な話や歴史の連続性を無視し、労働者を「労働者」という枠組みにまとめる。

これは「グローバルな資本主義」において買弁される側である、アジアやアフリカを透明化する行為である。

西欧知識人のこの姿勢はどこからくるのか。

①西欧知識人は社会制度と経済的な構造は切っても切り離せないことを認めない。もしくは気付いていない。(制度自体が何を元にしているとも言えない異種混交的ものである)

そのため今日の「グローバルな資本主義」及びそこに付随する社会制度は基本的は、欧米世界の利害によって成り立っているという前提がない。

②階級とはマルクスの定義によれば、「他の階級に属さない」という差異によって生じるものであり「労働者」という利害を同一にする階級が存在するわけではない。

彼らは「労働者」の多様性には目を向けず、自分たちの頭の中にのみ存在する「労働者」という階級を作り上げ、それに拝跪している。

 

西欧知識人は、植民地支配などを通じて、世界の歴史及び制度には必ず西欧的な価値観の文脈が介在していることにかなり鈍感である。

「西欧的な価値観」は世界の歴史の中に分かちがたく縫い込まれてしまっているため、それがあたかも「当たり前であり標準」であることを疑おうとしない。

「標準であること」が当たり前であることによって「自分たちが何者であるか」という問いがなく、自分たちが歴史から切断された透明中立な存在と考えているのではないか。

この奇妙なことにも否認の言葉によって(知識人の)透明性の中にいっしょに縫い込まれてしまっている主体/主体は、労働の国際的分業の搾取者側に属している。(略)

かれらの読むものは、批判的なものであれ無批判的なものであれ、そのすべてが、ヨーロッパとしての主体の構成を支持ないし批判しつつ当のヨーロッパの他者を生産する内部にとらえこまれてしまっているというだけではない。

そのヨーロッパの他者を構成するにあたっては、そのような主体がそれの道程でそれらでもって備給し占拠する(覆い尽くす?)ことができるようにと提供されたテクストの諸成分を消し去るために、多大な配慮がなされたものであった。

(引用元:「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p28-29/太字は原文)

 

第二章

第二章は主にフーコーへの批判からなっている。

フーコーは「正」のために「異質なものが作り出された」という新しい、知の枠組み(エピステーメー)を作り上げた。(「正(気)を作り出すために狂(気)が規定された」に代表する、フーコーの考え方を指していると思う)

しかしこのエピステーメーには、帝国主義的な歴史のナラティヴを含んでおり、そこに自覚的でない限りは暴力として機能する。

フーコーは、ヨーロッパの十八世紀末における正気の再定義のうちにエピステーメーの暴力が働いていることを確認している。(略)

しかし、正気というそれ自体としては特殊な概念にかかわる再定義がヨーロッパ並びに植民地における歴史のナラティヴの一部でしかなかったのだとしたら、どうだろう。(略)

ここで提供するのは、(イギリスによって遂行された)ヒンドゥー法を法典化しようとするなかで発動されたエピステーメーの暴力についての図式的な要約である。

(引用元:「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p30-32/太字・括弧内は引用者)

「再定義した」フーコー自身の知の枠組みが、既にヨーロッパ的価値観に基づいているのではないか。

そういう実例は無数にあり、ヒンドゥー法典の整備やインドの風習であるサティ(寡婦殉葬)の停止などは正に西欧的な価値観によって認識され、定義づけられた。

第一章で指摘された通り、西欧知識人たちは自分たちを歴史から切断された中立の透明な存在という前提にあり、その知の枠組みで物事を解釈している。

その弊害について、スピヴァクは本書で繰り返し指摘している。

 

フーコーだけではなく、スピヴァクが身を置いてるフェミニズムの中でも、

グローバルな規模における連合のポリティクスの蓋然的可能性に対する信仰は、買弁諸国において「国際的フェミニズム」に関心を持っている支配的社会集団の女性たちのあいだにも広まっている。(略)

労働の国際的分業のもう一方の側では、搾取されている当の存在は女性搾取のテクストを知ることも語ることもできないのだ。

(引用元:「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p54)

という問題を指摘している。

 

「搾取されているがそのことを知るテクストを知ることも出来ず、ゆえに語ることも出来ない存在」が、サバルタンである。

「労働者」と同じでサバルタンも、同一の利害を持つ階級(属性)ではなく、他の階級から切り離されていることを以て浮かび上がる存在である。

 

第三章では、結局「自分の認識によってのみ出来上がった他者(労働者やサバルタンなど)を作り上げ、そのことによって透明化された自己(主体)を浮かび上がらせようとしているだけでないか」

「自己を定義するために、都合のいい他者像を作っているのでは?」ということを語っている。

問われなければならないのは、自民族中心主義的な主体があるひとつの他者を選択的に定義することで自己を確立してしまうのを避けるにはどうすればよいか、ということである。

これは主体そのもののための企てではない。むしろ、善意にみちた「西洋」知識人のための企てである。

(引用元:「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p65)

「善意にみちた」という語の皮肉さがきつい。

第三世界の人が西欧社会の価値観を批判する時に、こういう皮肉は頻繁に出てくる。

 

第四章

西欧社会の文脈がどのように第三世界の国に紛れてしまっているのか、サバルタンの置かれている状況などを、インドの風習サティー(寡婦殉葬)を例に用いて具体的に語っている。

サティーの廃止については、イギリス側の「犯罪である」また「白人男性が茶色い肌の男性から茶色い肌の女性を救い出す」という文脈、もしくは反対に「風習である」「ダルマ・シャーストラによれば、寡婦は寡婦である肉体を夫と共に焼失させることで、主体を取り戻す」という文脈の二項対立によって解釈される。

だがここに登場する実際にサティーを行った女性は、イギリス側では「救い出すべき客体」として扱われ、ヒンドゥー側では「(家父長主義的な)風習の中で偽りの主体」を与えられ、二重に抑圧されている。

二つの文脈は一見対立しているが、それぞれ別の方向から当の女性を抑圧している。この二重の抑圧の中で、誰一人として当の女性たちの声を聞いた者はいない。

サバルタンはいかなる文脈においても語られず、発見されず、その声に耳を傾けられず、ゆえに語ることも出来ない。

 

感想まとめ

「自分の認識が標準だと疑わず、グローバルな経済構造やそこから生じる利害に紐づいていることを無視し、自らを透明な中立な存在にしてしまうこと」

「その『透明な自分』を浮かび上がらせるために、本来は流動的でまとまりがない他者(労働者やサバルタンなど)を自分の中の概念に当てはめて作り上げてしまうこと」

「そしてその他者に拝跪したり代表(代弁)したりすることで、自分を『権力』とは関係ない中立な存在とすること」

「『自分とは関係のない権力』を分析することで分析した気になること」

この論文は、西欧の知識人がやっていることはこういうことではないか、という告発をしている。

言葉は平易だが、読んでいくと内容は強烈な弾劾と言っていい。

 

結末においてスピヴァクは「同化によって他者を領有する危険」(P116)について語っている。

サティーを行った「サバルタン」は同一の利害を持つ「階級」ではない、その地域も立場も様々であり、流動的で定義できないものだ。

しかしサバルタンは、自らは語れないゆえに他者によって定義され「同化される対象」とされやすい。

彼女たちが何者であったか、どんな人物であったか、何を考えていたかを知らずに、彼女たちを「サティーの犠牲者」という像の中に閉じ込め語ることへの欺瞞と害悪が批判されている。

 

「西欧的認識を無意識にスタンダートとし、その認識と価値観によって物事を定義し語ること」については、第三世界から多くの批判の声がある。

以前、読んだ「ビルマ その危機の本質」でも

それから数年のあいだに、『ボイコット・ビルマ』運動がアメリカ全土に急速に広がった。

南アフリカのアパルトヘイトに抗議する投資撤収運動が成功裡に終わり、新たなターゲットを探していた学生組織にとって、ビルマは恰好の対象だった。

(「ビルマ 危機の本質」タンミンウー/中里京子訳 河出書房新社 P66/太字は引用者)

ビルマは「正しいことをする」ことにおいて何らマイナス面がない場所のように思えた。

ビジネス面での利害関係もほとんどなかったうえ、ビルマが戦略的に重要になるという打算も「まだ」なかった。

(「ビルマ 危機の本質」タンミンウー/中里京子訳 河出書房新社 P89/太字は引用者)

自分たちに損害が及ばないから内部の事情を知らずに正しさを押し付けることが出来るのだろう、という強い批判が書かれている。(サフラン革命は、本来は経済制裁から生まれた貧困や困窮を訴える運動だったが、「国際的な文脈によって民主化を求める運動に変換された」という批判も書かれている)

確かにこの本を読んだだけでも、ミャンマーはかなり複雑な場所だ。「民主化が正しい」と言われても一朝一夕では難しいというのは、事情を知ろうと思えば気付くはずだ。

ミャンマーの問題の原因は何なのか。「ビルマ 危機の本質」 - うさるの厨二病な読書日記

 

本書の次に読み出した「アメリカ世界秩序の終焉ーマルチプレックス世界の始まりー」の著者アミタフ・アチャリアも読売新聞への寄稿で、「欧米価値観や社会制度はその経済的利害と結び付いていること」を指摘している。

「知ろうとせずに、ただひたすら自分たちの『正しい文脈』で解釈しようとする態度」は、唱えている正しさの内容は異なっても、植民地時代と姿勢は大して変わらない。そういう批判は、様々な場所で多くの人の口から語られている。

 

スピヴァクやいわゆる第三世界と呼ばれる場所の人たちが指摘しているのは、「欧米世界観が無謬であるとすることへの欺瞞」ではない。(※「植民地支配をした『悪』として反省し続けろ」という話ではなく、むしろそういう外側から見た善悪に単純に色分けした二項対立の構図、その構図による認識こそが抑圧の主体ではということが書かれている)

その価値観を疑わず恣意的に紡がれた世界観で「他者」を認識解釈する「同化によって他者を領有する危険性」への無頓着さを批判し、そのことによって「領有される側に立つもの」として抵抗の意思を示しているのだ。

 

サバルタンは他者が定義できるものではなく、客体として救うべきものでもなく拝跪するものでもない。

その存在を見て、まずは知ろうとすること。

そして彼女たちを知ろうとする「私」は、何から生まれ何を背負った者なのか。

早急に物事に対する評価や判断や持説を述べる前に、自分も他者もまず知らなければならない。

そういうことが語られているのかな、と思った。

 

余談

「欧米的な信念や社会制度は正しいからではなく、欧米世界の経済活動や利害とわかちがたく結びついているからそれを推進している」

それを知っているから、ウクライナ侵攻に際してもアフリカ、アジア、南米諸国、島嶼国の人々は、中露にも欧米にもつかない態度を貫いている。

 

https://oilgas-info.jogmec.go.jp/info_reports/1009226/1009385.html

欧州がロシアの代わりの天然ガス供給源として期待するアルジェリアも、むしろロシア寄りの姿勢である。

今回のロシアのウクライナ侵攻に際しても、アルジェリアは国連総会決議において棄権票や反対票を投じる等、ロシアとの政治的関係を維持する立場をとる。

バイデン氏に原油増産求められたサウジ、応じるかは不透明…会談後の共同声明で「定期的に協議」 : 読売新聞オンライン

記者殺害疑惑で批判していたサウジアラビアに、米国はガソリンが高騰して苦しくなったとたんに頭を下げに行っている。

 

中国との関係が深まりつつある島嶼国の状態に慌ててか、最近は力を入れて外交をするようになった。

「ソロモン、中国と安保協定」のニュースにうわっとなった&「権威主義的な国は指導者がどういう人間かで全てが左右される危険」について。|うさる|note

激変する太平洋地域の安全保障環境と太平洋島嶼国――パシフィック・ウェイに基づく協調行動は可能か(片岡 真輝) - アジア経済研究所

 

王宮の扉、玉座…フランスが略奪美術品をアフリカ・ベナンに返却へ:朝日新聞デジタル

この件も読売の記事によれば、当時の王国はフランスと結んで奴隷貿易を促進していたが、そういう文脈を無視して返還するのはどうなのだという批判が起こっている。

 

エマニュエル・トッドはフランス人だが、ウクライナ侵攻の本質はロシアとアメリカの地政学的な争いであり、日本はこれに巻き込まれるべきではないという主張をしている。(ロシアが強国であったほうが、むしろ中国の抑止になるという考え方)

www.saiusaruzzz.com

自分もロシアのウクライナ侵攻には憤りを感じているし、今後も反対していくつもりだ。

ただだからと言って、自分たちも「正しさ」のみで行動しているわけでもないのに、「正しさ」を盾に他の国々に「中露か我々か」と踏み絵を迫るような行為にも賛成は出来ない。

 

前述した「アメリカ世界秩序の終焉ーマルチプレックス世界の始まりー」の著者アミタフ・アチャリアの読売新聞への寄稿の主旨は「日本には欧米とは違う方向性からアジア諸国に関わって欲しい、日本にはそれが出来るはずだという期待がある」というものだった。

日本メディアへの寄稿だから多少は気遣いがあるにしても、特にアジア圏の識者や政財界の人間の発言を読むと、日本に望むことは「欧米とは違う関わり方をして欲しい」という期待が多い。

上記のような色々な経緯や地域の状況を見るに、欧米価値観への疑問や日本すごいなどではなく、日本が世界で生きていくために、日本のためにアジアの一国として立ち位置を作って、東南アジア、中央アジア、アフリカ、中東の人たちなどの地域の人と独自のやり方で分かり合って関わり合ったほうがいいと思うのだ。

10月に発表されたアメリカの中国に対する半導体輸出規制のように、今後もアメリカは「我々か中国か」という踏み絵を迫ってくると思う。欧米の政治体制もかなり不安定になっている。

日本のように資源もなく食糧の自給もままならない国が今後どうしていくか、ということをこの状況を踏まえて考えて欲しいと、この国で生きている一人として思うのだ。