「すずめの戸締まり」を観てきた。
リアルで知人から「面白かったか?」と聞かれたら、「けっこう面白かった」と答えると思う。
これはこれで素直な感想だ。
ただリアルではたぶん話さない、クソ面倒臭い疑問や不満もあるので、聞いてもいいという人は良かったらお読みください。
※前振り。
※以下ネタバレ注意。
ミミズは歴史を貫いて、この地に流れ続けるものである。
自分は「すずめの戸締まり」は、その場所に住む人、生きてきた人の「集合的記憶」をどう扱うべきか、という話として観た。
人の記憶(歴史)というのは、その地で育ってその地そのものになる。
その記憶の集合体が方向性を誤ると、より巨大な災厄(という名前の力)になる。だからその記憶を正しく積み上げ、その地と共存していく。
自分も自然と歴史とその地に住まう人間の関係はこういうものだと思う。(この話を具体的な事例に落とし込んでいくと、温暖化などの問題になる)
「すずめの戸締まり」で出てきたミミズは、制御不能になった「人の最も深い部分のエネルギーが積み重なったもの」だ。
すずめがノートを塗り潰したあの感情を通して、すずめはミミズとつながっており、その一部でもある。
だから扉を開けたすずめにはミミズが見えるのだ。
あのミミズは、自分たちにもつながっている。自分たちもその一部である。
自分の一部として、そして自分が一部であるものとして、あれをどう認識してどう扱うのかを考えなければいけない。
そういうことを残すための物語なのだ。
その地に生きる人の記憶そのもの、多くの人に通ずる神話を創っておこうという試みだ。
この話が(恐らく)描きたいこと自体には大賛成だし、上記のインタビューに出てきた「記憶を共有しなければならない」「そのための物語を作らなければならない」という新海誠の姿勢には共感した。
「神話」は、人間が集合的記憶の力を制御することが出来る数少ない方法のひとつだから、人気も実力もある作家がそういう装置(話)を残そうとすること自体は、とてもありがたいことだと自分は思う。
「その地で今まで生きてきた人たちすべての記憶」と「個人の話」は、同時には描けない。
だからこのテーマをやる場合は、
①登場人物はあくまで象徴にとどめ、寓話にする。
②一人の人間の内面をドス黒い触れてはいけない部分まで掘り下げて、それをどう扱うかを考えることによって、その集合体であるミミズをどうするかを考える。
どちらかに比重を置くしかない。
寓話だとすれば面白くはないが、やりたいことはわかる。
自分は最初「すずめの戸締まり」は、①の寓話としてこのテーマを扱うのかと思った。
何故なら話が偶然の連続……要はご都合主義だからだ。
すずめ(と草太)が困ると、必ず誰かが通りがかり助けてくれる。そして全員善意の人で、ほとんど何も聞かずすずめのことを助けてくれる。
現世での困難はほぼなく、話がすいすい進む。
普通の話だったらツッコミどころ満載だが、寓話であれば問題ない。
寓話であれば、すずめはただの象徴であり、ミミズの一部である人々がそれぞれの力を少しずつ寄り集めて、この地に生きる人全員でミミズを制御する話だからだ。
すずめに与えられる善意自体が、誤った*1エネルギーであるミミズを少しずつ制御するものだ。
前半の調子で「すずめがあくまで『ミミズを制御する力の象徴』としての主人公として描かれていたら、この話に余り文句はなかった。
「自分には余り合わなかったが、こういう話は残すべきだと思う」という感想で終えていたと思う。
前半と後半で物語の造りが違う。
ところが「すずめの戸締まり」は、後半から②の個人的な要素が大きくなる。
すずめという個人の回復によって、災害の記憶を共有すべきものとして正しく積み重ねることが出来るのではないか。
こういう話になる。
「すずめ個人の話」になると何が問題かと言うと、まず寓話ではなく個人の話であれば前半の展開がご都合主義すぎる。
創作だからご都合主義がひとつやふたつならそこまで気にならない。
だが、たまたま草太に出会って、たまたま扉を発見して、たまたま開けてしまい、たまたまチカに会って、たまたまチカがいい人で泊めてくれて、たまたま次に会ったルミもいい人で……。
と全てがご都合主義だ。
「神話」は、ある結論に導くためにすべての要素が動かされる。物語上個人に見える人物は、個人ではなくすべて「運命」というシステムの一部である。だからご都合主義でも問題はない。というより、ご都合主義……結論に向かって超越者の意思が働くこと自体が目的なのだ。
しかし個人の話は作内の個人のモチベーションがエネルギー源なのだから、物事がすべて都合よく動くのは話の造りとしておかしい。
「すずめの戸締まり」は前半はすべてが運命(偶然)によって動かされており、後半はすずめ個人の物語なので主にすずめの草太への恋心が物語を推進している。
全体を通してみると、凄くちぐはぐなのだ。
個人の記憶の集積がミミズであるのなら、個人の黒い感情や葛藤も描くべきでは。
「後半部分」単体でも納得できない部分がある。
扉を閉じる時は、その地に生きていた人の生きる姿を思い浮かべながら扉を閉じる。それがその地に生きていた人たちの歴史であり記憶だ。
しかしそれは、あんなに優しく温かい記憶ばかりではないはずだ。
神話であれば人は象徴(概念)なので、「良い記憶」ばかりでも納得できないことはない。
しかし「その地に生きる人の記憶」を具体的な個人一人に落とし込むならば、あのミミズを形成する扉の一番奥底に封印していたドス黒いエネルギーを余さず描くべきだ。
その心の奥底に眠るドス黒い記憶こそがあのミミズの一部であり、それをどう制御し生きていくかという話だからだ。
唯一この「ドス黒いもの」が描かれたのは、環が左大臣に乗っ取られてすずめを引き取ってから今までの思いをぶちまけた時だ。
しかし、あのミミズが象徴するものがあんなもので済むはずがない。
十年以上一緒に生きてきた中で、すずめも環もそうとう複雑な感情や葛藤を抱えて生きてきたはずだ。
すずめが母親を失って、十年以上何を考えて生きてきたか、周りと比べて自分だけ何故と思わなかったか、母親を追って死にたいと思ったことはないのか。そういう「十年以上ぶんの喪失の重み」を描くことは不可欠だと思う。
これは草太も同じだ。
芹澤が「草太は自分を粗末にしすぎだ」と言っていたが、草太個人の葛藤は作内でほとんど描かれていない。
育ての親である祖父は、閉じ師であるからには命も人生も賭けるのが当然ということを話している。その祖父の言葉と比べて、草太が自分の人生について「閉じ師をやりながら教師になる」というひと言で済ます態度は余りに落差が大きい。
このテーマをもし個人の話と重ね合わせて書くならば、百万人が死ぬミミズの暴走を生むほどの闇を必ず描くべきだ。
そうでなければ、あのミミズはすずめとも草太ともその地に生きる人間とも何も関係ない、ただそこにあるだけのものになり、たまたま被害を被った人以外は何も関係がない、ゆえに受け継ぐものがなくなってしまうからだ。
この地と密接に結びついたミミズは、自分たちの内部とも密接に結びついている。集合的記憶は個人の記憶の集積であり、歴史は個人的歴史の積み重ねだからだ。
あのミミズは自分たちの内部も貫いて、自分たちが死んだ後もこの地で脈々と流れ続けるものなのだ。
だから生命は儚いものであり、死はすぐ隣りにあるものなのだ。
人間の個人の記憶の集積をただの象徴として扱わず、個人の中に具体的に落とし込むのなら、覚悟してその喪失の痛みを描かなけばいけない。
その喪失の積み重ねこそがあのミミズなのだ。だから扉が必要で、閉じ師が必要なのだ。
そうやって人は喪失の記憶や歴史を積み重ねて、それを制御して災害が起こった(起こる)土地で生きていくしかない。
そういう話じゃないのか。
すずめが十年以上、どれほど母親を失ったことに悩み苦しみ葛藤して、環もそのことを重荷に思ってきたかが描かれていれば、それが草太との恋愛で解決しても構わない。
だけど、大して人格が描かれない「優しい」だけの母親がいなくなって、ノートを黒く塗りつぶされただけの闇が解消しました、それで「他者と何かを共有する」と言われてもそれは余りに「他者」を軽くみすぎではないか、と思ってしまう。
新海作品は自分の闇についてこれでもかと描いてきたのだから、他者についても出来ないはずがないと思うのだが。
女性主人公だからか、突然至れり尽くせりになったことにモニョる。
自分が観た新海作品の中では、「ほしのこえ」以外では初めての女性主人公だったが、話の造りが似ているだけに「天気の子」の帆高との扱いの落差が気になった。
帆高は明らかに故郷で何かあって逃げ出してきて、東京に来てもどこにも居場所がなかった。警察には追い回され、圭介にも(一度は)売られたりする。
また恋愛相手である陽菜は意識がなく、帆高は世界中を敵に回した状態で一人で走り回る。
それに対して、すずめには誰も彼もが好意的で、何も言わずとも手助けをしてくれる。椅子に変わったとは言え前半は草太がほとんど一緒にいて、指示を出し助けてくれる。
後半も芹澤と環が草太がいる場所まで連れて行ってくれ、ミミズとは左大臣が戦ってくれるといたれりつくせりだ。
「私が要石になる」と言われても、絶対にならないだろうと思ってしまう。
そもそもがすずめが要石を抜いて自分のミミズ(黒い感情)を解き放ち、恋をした草太+椅子という母親への思いを心の奥底に封じておけばよいが、それが嫌だからようやく自分の痛みを乗り越えた。
という話だとすると、草太のほうが完全にとばっちりだ。
こんなに女性キャラ接待物語でいいのか、と思わないこともないが、惚れた女性のためならば何でも出来るいつもの新海作品を女性側から見ただけと言えないこともない。
草太もすずめが好きみたいだし、「それが俺の仕事だから」と言っているのでそれはそれでいいのか。
ということを余り考えなければ、冒頭で言った通りまあまあ面白かった。(本当に)
「ねじまき鳥クロニクル」が同じテーマを扱っているが(「ねじまき鳥」は戦争の記憶だが)難しいテーマだよな、と思う。
続き。
追記。
【映画感想】「すずめの戸締まり」に色々と疑問や不満を感じたので語りたい。 - うさるの厨二病な読書日記
みみずの解釈が違う。みみずは人間と対立する自然という概念。神、天皇の力でもって制圧し日本という地を使うことの許しを得てきた
2022/11/22 08:17
確かに解釈が違う。
自分は「神と人」「自然と人」が対立するもの(二元論)とは思っていなくて、人間も自然(神)の一部であり人間がその一部を内包するものだと捉えている。(人間は自然の縮図)
だから人間である草太が要石(神)になることが可能なのだと思う。
自分たちを鎮めることが自然(神)を鎮めることにつながる(バランスを取る)、そういう方法で周囲(自然や他者)と調和していくことだけが人間に出来ることだと思う。
*1:というと語弊があるが、一応