*本記事にはネタバレが含まれます。未視聴のかたはご注意下さい。
「シン・ゴジラ」が面白かったし、休みだし観てみるか、くらいの軽い気持ちで見出した。
意外や意外、まったく前知識のない人間でも開始五分で話にのめり込める。格闘あり、陰謀あり、笑いあり、葛藤あり、感動ありで二時間飽きることなくスルスル見れた。
最初の怪獣と二番目の怪獣は、寄りで見せられると明らかに古き良き昭和の作り物感がある。
それを見た瞬間にリアリティなんて木っ端微塵になる……と思いきや、まったくそんなことがない。
リアリティを感じるか否かというのは、実はリアルに則しているかどうかは余り関係がない。(と思う)
周りの要素が矛盾なく連結していて世界観が継ぎ目なく構築されていれば、その内部にいる人間にはどんなに荒唐無稽なことでも現実として機能する。*1
創作では世界観の構築が巧みであればあるほどその内部のストーリーのリアリティの強度が高まる。逆に怪獣が暴れることで引き起こされる震動や、自衛隊員や禍特対組織の会話など細部のリアリティが積み上がることでも、作り物っぽい怪獣が本当の怪獣として認識される。
こういう具体的な体感や感覚を積み上げてリアリティのある世界観を作るのが異常に上手い。
そう言えば「シンゴジラ」の時は、ゴジラを見るとき煽り視点になると本当に踏みつぶされそうで怖かった。
そして世界観をほころばせるような要素は、思い切って省いている。
ほぼすべて話が政府、公的機関の内部で話が終始していて、登場人物の私的な背景や日常がまったく出てこない。
「シンゴジラ」もそうだったが、この箱庭的世界観の構築の仕方や余分なものをバッサリ省いたストーリーの作り方が凄く好きだ。
ストーリーも、普遍的なテーマをシンプルに見せているからこそ引き込まれる。
ウルトラマンは禍威獣と同じ他外星由来の存在だが、禍威獣と違って知性がありコミュケーションが取れる。そこが禍威獣との違いだとすると、知性がありコミュニケーションが取れれば分かり合えるのか。
そういう疑問を提示するためにザラブが出てくる。
「自分の利害しか興味がなく、一方的に利用するだけだった」ザラブを倒すと、今度は人と変わらない外見をしていて、平和に物事を解決しようとするメフィラスがやって来る。
ザラブやメフィラスとウルトラマンの違いは何なのか。
ウルトラマンは、神永の自己犠牲的な精神を見て人類を理解したいと思い、神永と融合した。
これがわかったときはけっこう泣けた。
しかしウルトラマンが神永が代表する人類を理解したい、神永のように人類を助けたいと思い神永(人類)と融合したことが、結果的に「人類が生物兵器として利用可能なこと」を証明してしまい、ザラブやメンフィス、最終的にはゾフィーを呼び寄せてしまう。
この皮肉さが凄くよかった。
「登場人物が善意で良いと思った(観ているほうも疑いなくいいと思える)選択をしたことが、悪い結果を招く」という皮肉な展開が、けっこう好きなのだ。
善意のいい選択がいい結果を招くとは限らない。それでも「いい選択」をするのか。
人類に比べれば万能に見えても、ウルトラマンの選択がこういう結果を招いてしまうこともある。
だがそれでも、そういう限られた知識、状況の中で最善の結果を目指して選択をし続ける、という精神が物語にずっと通底していた。
滝の覚醒もそれだけを見ればベタだが、こういう流れの中だから予想が出来ても「おおっ」というカタルシスがある。
斉藤工は、特に好きでも嫌いでもないけれど、ウルトラマンにはピッタリだなと思った。
まだ人類のことを良く知らないから日常がぎこちなく無機質な感じ、無表情なのにどこか哀愁が漂っていて、人間である神永が融合している感じが出ている。
50分21秒辺りで浅見が言った「あなたは人間なのか、他外星人なのか」という問いに対するウルトラマンの答えが、凄く印象的だった。
「あえて狭間にいるからこそ見えることもある。そう信じてここにいる」*2
「あえて狭間にいる」のはけっこうしんどいことだが、この言葉通りウルトラマンは、どんな状況になっても他外星人と人間の狭間である「ここ」にい続けた。そこから考え、行動し続けるというウルトラマンのブレない姿勢が、ストーリーを貫いていた。
シンプルだが、凄くよく出来ている。こういう話、めちゃ好きだ。
未視聴のかたにはおススメです。