今までBLはほとんど読んだことがなかったが、「エネアド(ENNEAD)」は無茶苦茶面白くハマっている。
個人的には「エネアド(ENNEAD)」はBLというジャンルを超えて、普遍的なことが描かれていると思う。
*ネタバレ注意。
「エネアド」は、「普通の男・セト」が抱く「自分とは何なのか」という存在不安を描いた物語。
「エネアド」の主人公・セトは、善良で家族思い、友人を大切にし、社会で責任を果たし、乱暴な言動をとることもあるが基本的には優しいごく普通の男だ。
(引用元:「ENNEAD」5話 MOJITO)
そんな「普通の男」であるセトが「社会の中で生きることによって封じられていた、自分という存在に対する不安」に否応なく対峙させられる。
良き夫、良き父親、良き社会人(エジプトの守り神)で「自分が何者であるか」という疑問をちらりとも考えたことがないセトを根底から揺さぶったのが、生命の神である兄オシリスだ。
オシリスはセトに「俺の許可なく砂漠を作れるのか?」と言い、「神としての存在を否定する呪い」(第35話)をかける。
セトは「自分が持つ権威や力は全てオシリスから与えられたもので、オシリスの力がなければ、ただのつまらない砂の神に過ぎない」という本当の自分を突き付けられる。
セトの妻である調和の女神ネフティスも、「平和が力の強い者によって与えられること」を知っており、だからセトではなくオシリスの子供を望んだ。
自分の力は全て外界から与えられたもので、自分自身の力ではないのではないか?
本当の自分は無力で弱い存在であり、愛を与えられないのではないか?
セトはオシリスによって植え付けられたこういう不安(呪い)と戦うために、「自分は強く恐ろしい存在なのだ」と自分自身に証明し続けなければならなくなる。(この辺りの心境は第二部20話で描かれている)
セトは元々は愛情深い良き夫で優しい父親であり、エジプトを守る「強い戦争の神」だった。
しかしその自己像を、オシリスに破壊される。
外部から与えられた装飾を剥ぎ取られ、弱く小さい自分に直面しなければならなくなった時、セトは、守るべき妻子や自分の民も含めてすべてを傷つけかねない弱さが自分の中に眠っていることに初めて気付く。
実際にセトは勘違いで、息子アヌビスを斬りつけてしまう。それはオシリスの呪いのせいではなく、呪いによって暴かれたセト自身の弱さのせいなのだ。
セトは自分自身でその弱さを断ち切ることが出来ない。
それがわかっているから、ホルスの出現によって「アヌビスやネフティスが俺から逃げられること」(第26話)を嬉しく感じたのだ。
オシリスに「呪い」をかけられる前の家族思いの強い戦の神も、人々を無慈悲に殺す暴君のセトもどちらも「本当のセト」だ。
セトが背負っている「社会から切断された個人の弱さ」は、誰もが持つ。自分を構成する他人や社会との絆を断たれたたれたむき出しの「自己」は、これほど脆く弱い。
「善良で家族思い、社会で責任を果たしている」
そんな普通の人が家族や社会という他者から与えられたものを剥ぎ取られると、「自分とは何なのか」ということにこれほど苦しみ、その「個人の脆弱さ」によって大きな罪を犯してしまう。
そういう残酷な構図が描かれている。
妊娠出産という「創造の力」を持たない男たちの不安。
セトを追い詰めるオシリスも、セトと同じように「自分という存在への不安」を抱えている。
オシリスやセトが「自分という存在への根源的な不安」を持っていて、そこを突かれると脆く崩れるのは、「創造の力」を持たないためだ。
第70話で語られる通り、神は人間とは違い、本来は女神単身で妊娠出産が出来る。「創造の力」は女神にのみに与えられた権限なのだ。
オシリスは「創造の力」を男であるがゆえに「奪われ禁じられて」(第48話)おり、自分だけの力では「新しい神を完全な形で創造できなかった」(第40話)
オシリスがセトを選んだのは(愛情を抱いたのは)セトの神格が「砂漠=命を奪うもの」だからだ。
奪われた命の霊魂はすべて砂になるため、砂は命が芽吹く土台になる。(第36話)
オシリスは生命であるために、砂漠にセトの種を根付かせ、新しい命を芽吹かせようとした。そして生まれてくる子供こそ、オシリスがずっと求めていた「愛の結実」(愛に保証を与えてくれるもの)と考えていた。
セトがアヌビスが自分の子供でないと知った時に感じた、またオシリスがセトにずっと感じていた「自分が消されてしまうような不安」は、二人が「創造の力を持たない男」だから持っているものなのだ。
(引用元:「ENNEAD」41話 MOJITO)
「愛」という保証を得られない苦悩。
「自分自身に対する根源的な不安」を抱える男たちは、保証として「愛の結実=子供」を求める。
しかし、ラーが69話と70話で語るように、
「そもそも創造の神である女神は、特定の男神の子どもだけを生まなければならないという規則はない」
「女神単身で子供を産めるのに、結婚なんていう制度を作るから愛という余計な執着が生まれ、惨劇が生まれる」
というように「エネアド」の男神は、二重三重に子供という「愛の結実」との絆を断たれている。
彼らは子供を産めないし、本来的には産むこと(創造)に関与も出来ない。だから「創造の力を持たない」という存在不安から逃れることが出来ない。
セトのアヌビスに対する深い愛情(執着)は、この「自分の存在が消されてしまうような不安」を解消する「愛という保証」が得られないことからきている。
アヌビスとホルスは、セトの「自分の存在が消されてしまうような不安」からくる愛情=執着=呪いによって成長を阻まれていた。
その愛(執着)はラーが指摘している通り、本来は神にとって不要なものだ。
「愛があると、本来的には神にはなれない*1」
「エネアド」にはこういう法則があり、セトに対する愛を捨てられないホルス、アヌビスは神になることが出来ない。そのためにいつまでも呪いに苦しめられる。
このジレンマを断ち切るには、ホルスがアヌビスに教えた通り、「全ての絆を断ち切って、何もかも忘れて遠くへ行くこと」(第67話)だ。
自分自身の執着(愛)を捨てれば、呪いはもう追ってはこない。
「エネアド」において、愛とは執着であり時に呪いなのだ。
その愛も、セトはオシリスによって「ただの社会的な利害に基づくものではないか」(ハトホルに作られたものに過ぎない)と指摘される。
(引用元:「ENNEAD」49話 MOJITO)
(引用元:「ENNEAD」49話 MOJITO)
「『愛』とは社会的な殻に過ぎず、それが全てだ」
「夫・父親」というのが自分の居場所だから、妻や子供を愛しているのではないか。それが「愛」の正体ではないか。*2
オシリスの言葉が正しいとすれば、セトという個人を守るもの、拠り所となるものは何ひとつなくなる。
「愛は元々社会的なものであり、『自己の存在不安』の保証にはならないものだ」
そうとことん詰めてくる。
「エネアド」は社会で生きざるえない人間の、普遍的な悩みと葛藤を描いている。
「承認を与えてくれる」
「居場所を作ってくれる」
そういう見返りを求める気持ちも含めて愛なのか。
その見返りがないとするなら、自分という個人は相手のことをどう思っているのか。
「社会」という枠組みがなくなった、自分とは一体何者なのか。どんな人間なのか。
そういう社会の中で生きる人間の普遍的な悩みと葛藤を、「エネアド」はセトという一人の人間を通して描いている。
二部では「神格」を失い、ただの人間に近い存在となったセトが、自分の目で自分自身の罪を目の当たりにする。
自分の弱さ、自分の悪と対峙しなければならない。とてもキツイ展開だ。
たがキツくとも自分の内部を細部まで見つめるセトの自己探求の旅が最後にどこに行き着くのか、楽しみでもある。
日本語では紙書籍は出ていない。出してくれないかな。
この先は:ホルスが「愛(執着)」を持ったままの新しい神になるのではないか。
原作(韓国語版)は既に完結しているらしい*3。
ここまでの流れを考えると、最終的には「ホルスがセトへの愛を持ったままの新しい神になって終わる」のではないか。
トトの本当の予言「お二人の子供がエジプトの未来を変えるだろう」(第64話)と、ネフティスの「今回排除されるのは、人ではなく神なのでは?」(第66話)という言葉を考え合わせると、そう思える。
「成長しないで欲しい」というセトの愛を受け入れつつ、その呪いを乗り越えてホルスが成長して「新しい神」になるという展開だとすると胸アツだ。
*考えを整理してさらに率直に書いてみた。
*シーズン1の考察記事。
*noteで書いている記事をまとめたマガジン。初読時の感想、キャラ語り、CP語りなどしています。