2022年11月27日(日)読売新聞朝刊に掲載された、シンポジウム「『虚実のはざま』報道から考える~フェイクの氾濫に立ち向かうには~」を読んだ。
情報の真偽の見極めかたや情報との付き合いかたについて、自分の考えと重なる部分が多かったので、頭の整理がてら感想を書きたい。
「陰謀論」には依存性があり、誰もがハマる可能性がある。
「コロナ陰謀論」を信じ、感染対策を拒否するようになった居酒屋店主や、一人暮らしの無職の男性らのケースを桑原記者が報告。
自粛要請などで廃業の危機にさらされたり、人と会う機会が断たれたりする状況でSNSの言説に引き込まれていったと明かし、「背景に社会への不満や不安、孤立などがあると思う」と述べた。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」/太字は引用者)
外から見て「なぜそれを信じる?」「なぜ騙される?」と思うようなことに引っかかったりハマったりするのは、個々人の能力はほとんど関係ない。
その時の心境や状況の影響が大きい。
「今の状況ではなく、気持ちが不安定な時や辛い状況に置かれたらもしかしたら自分も」という前提で、この問題は考えたほうがいいと思った。
「陰謀論には依存性がある」と語り、人が理不尽な状況を受け入れるための救いになっている面があるとの見方を示した。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」/太字は引用者)
色々な種類の情報に触れられない状況や、本人が凄く不安を感じていたりすると「確かなもの」「自分に希望を与えてくれるもの」に容易く傾倒して、それを心の中心に据えてしまう。
本人の心境が深く関わっているので、「客観的に見た意見」はほとんど効力を持たない。「陰謀論自体は虚構だとしても、それを信じたくなるその人の気持ちは本物」だからだ。そこに陰謀論の難しさはある。
他人の感情を尊重することが求められる。
正しい情報を伝えても、相手が受け入れるかどうかは別問題だという姿勢が大切だ。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・内田麻理香)
そうは言っても身近な人だと困るなと思うが、それでも大きな問題が起きていないのであれば「別の人間である自分には出来ることはない」とある程度、手放すことも重要なのかもしれない。
フェイクを見極めるポイントはあるのか?
パネリストのそれぞれの意見を見て、「情報の真偽」を見極める上でのポイントになりそうなものを上げる。
①発信者の信用性
②曖昧さを受け入れる。
③表現技術
④「自分には偏りがある」という自覚。
①と③が個々の情報を具体的に見極める際のポイントで、②と④は情報に接する上で持っていたほうがいい前提になる。
ひとつずつ見ていく。
①発信者の信用性
「誰が発信したのか」「いつか」「事実か」「自分とどう関係するか」「発信の目的」を意識すれば、ある程度は誤情報に惑わされない。
だが(略)限界も出てきている。
そこで米国では「横読み」という方法が広がっている。ネットで情報を上から下へと読む前に、発信者を検索するなどして信用性を調べるという考えだ。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・坂本旬/太字は引用者)
「情報源がどこか」「その発信者は何の目的で発信をしているのか」*1を基準にして、情報の真偽を測るやり方だ。
発信者がどういうモチベーションを持っているかを測る方法としては、個人的には「自分が発信した情報をフォローし続けるか」がひとつの目安になる*2と思う。
「その話題が世間の興味をひかなくなったら、その後のことはまったく発信しなくなる」
「正しさに興味がなく、誤った情報を発信しても訂正しない(そもそも正しいのか否かまで追わない)」
この二つは、発信者の動機が「その話題への関心ではなく、注目を目的としている」かどうかのひとつの目安になると思う。
②曖昧さを受け入れる。
本来は科学に誠実であろうとするほど言い方は慎重になる。
「この条件下なら成り立つかもしれないが、それ以外では100%とは言えない」
という具合だ。(略)
曖昧さを受け入れる姿勢が重要になる。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・内田麻理香/太字は引用者)
コロナ禍でよく言われていたことだ。
情報がこれだけ溢れると、どうしても「ひと目でパッとわかるもの」「すぐに呑み込めるもの」「それ以上判断しなくていいもの」を求めたくなる。
だが本来物事は、どんなものであれ「絶対にこう」と言い切れるほど単純なものはない。きちんと説明しようとすればするほど曖昧になる。
「わかりやすさ」が強い力を持つからこそ、「複雑さ」や「曖昧さ」に耐える力が凄く重要だ。
自分も正直なことを言えばこの記事を読み込むのも面倒臭いと思ったが*3、「細かいことに耐える訓練」くらいの気持ちでやっている。
③表現技術
人間は画像や動画に弱く、怒りや恐怖を感じやすい。
重要なのは、個人も含めた発信者からの様々なメッセージに自分の感情が動かされた時、どんな表現技術が使われているかを考えることだ。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・坂本旬/太字は引用者)
確かに「画像」は、自分の目がはっきり認識するものだけに説得力が強い。
ある程度フェイクかもしれないないと疑っていても、「画像を見る」という感覚自体が自分の中で「事実である根拠」として働いてしまう。
フェイク画像も発信者を探る「横読み」が重要なのだろうが、精巧なものを見せられたら「そうしよう」と思うまで疑えるか余り自信がない。
④「自分には偏りがある」という自覚。
誰でも「自分は偏っていない」と思いたいが、そうではない。偏りがあるという自覚が必要。(略)
知識があってもバイアスが重なり、信じたい説を作り上げてしまう危険がある。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・内田麻理香/太字は引用者)
個人的な考えとしてはこの「偏り」こそが「自己」なので、物の認識の仕方に偏りがない人間はいないと思う。
なので情報の「取得し方」(入口の段階)で「自分というバイアスをかけない」というのは、凄く重要だと思う。
自分が意図しない情報が入ってくると、自分の認識のみで積み上げてしまった「説」を測り直すことが出来る。逆に情報の取得まで自分というバイアスをかけてしまうと、「自分の説に沿った情報ばかり集めてしまう→ますます正しさを確信する」という逆転の現象が起きてしまう。
ネットで話題になることを見ると、この現象に個人の能力や知識はほとんど関係がないんだなあと思う。
「フェイクを見極めるポイント」としては、日ごろからは「事実は複雑で、時に曖昧性を含む。『わからない』に耐える力をつける」「自分というバイアスに意識的である」といいのかなと思った。
また具体的な情報の見極め方としては、「発信者に注目する(特に『正しい事実を発信すること』に、日頃からモチベーションの比重を置いているか)」「表現技術によって、無条件に正しいものと受け入れていないか」を考える。
これだけ情報が氾濫していて技術が高度だと、気を付けていても「全てを正しく判断すること」は不可能だ。
「わからない」と思ったら立ち止まることと、騙されてしまったらそのことを反省して「なぜ引っかかってしまったのか」を精査することが大事だと思った。
このシンポジウムのために記者の取材に答えてくれた「陰謀論を信じてしまった人の経験談」は、ありがたいものだなと思う。
「注目」という財産を奪われないようにする。
情報が過剰な時代は、情報量に比べて、我々のアテンション(関心)や消費時間が圧倒的に希少になって価値を持つ。
これを「アテンション・エコノミー」と呼んでいる。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・山本龍彦 太字は引用者)
今の時代は「注目>情報」価値がこうなっている。
個々人が持っている「注目」*4に、最も大きな価値がある。
だから発信者側は、あの手この手を使って一人一人が持つ「注目」という財産を奪おうとする。
自分の中で「正しい情報>注目」常にこういう構図になるように心掛けておくことが凄く重要だ。そうでないと、正しさや誠意などを切り捨てた、「その場の注目を集めればOK」という情報に簡単に注目を奪われてしまう。
だから今は言論の内容を巡って争う場ではなく、刺激の競争の場に変質してきている。フェイクニュースや陰謀論が優位な市場になっている。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・山本龍彦 太字は引用者)
「言論の内容を巡って争うのではなく、刺激の競争の場にしようとしているものや人」に注目を与えないようにしないと、自分も「刺激の競争の場」を作ることに加担してしまうことになる。
この辺りは気を付けたいなと思った。
ー「インフォメーション・ヘルス(情報的健康)」という考え方がある。
様々な情報をバランスよく摂取することが、フェイクニュースなどへの免疫を獲得することになる(後略)
当然偏食をするのは自由だ。だが現状は主体的に偏食しているというより(略)プラットフォーマーのアルゴリズムによって、いつの間にか似たようなものを見せられている面がある。
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・山本龍彦 太字は引用者)
「インフォメーション・ヘルス(情報的健康)」は、初めて聞いた。
食べ物であればある程度*5は、「同じものばかり食べているな」「体に良くない食生活だな」とわかるが、情報は判断が難しい。
アルゴリズムとエコーチェンバーに気をつけて、なるべく偏りがないように情報を摂取する。
色々なメディアを横断する。
それくらいかな、出来ることは。
プラットフォームが利用者の閲覧時間を獲得する競争ばかりをしていると、不利になる仕組みが必要だ。
どのプラットフォームが情報健康に配慮しているかがわかり、選択できるのが理想だと考える。食品で健康への配慮が求められるのと同じだ。
ーこの問題でマスメディアが果たすべき役割とは。
アテンション・エコノミーとは距離を置き、ネットでの閲覧数の獲得のみを目的とした手法をとらない(後略)
(引用元:2022年11月27日(日)読売新聞10面「情報過多 見極める目」発言者・山本龍彦 太字は引用者)
プラットフォーマーもメディアも、利用者から「注目という財産」を奪うことを第一にするのではなく、「支払われた注目に見合う、正しく良質な情報を届けよう」という姿勢を持って欲しい。
またそういう姿勢を持たないものには、利用者も自分たちの貴重な注目という財産を支払わないという姿勢が大事だと思う。
まとめ:「注目」という貴重な財産を何に支払うか。
「注目>情報」の今の時代は、自分たちは「注目」という貴重な財産を持っている。
「自分が生きていくうえでは自分の利害に関係する適切な情報」は、本来はさほど多くない。生きていくだけならば、身の回りの生活の情報ネットワークがあるだけでも十分生きていける。*6
そういう前提で、自分に対して「ただ注目を搾取するだけのものではない、誠実さと正しさを追求した『注目という対価に見合う情報』を渡す」という姿勢がないものは、それが多少自分の心を刺激し、退屈なり不安なりを紛らわせてくれるものだとしても「注目は支払わない」という姿勢を見せることが大事だと思った。