うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【大河ドラマ「鎌倉殿の13人」】山本耕史が語る「三浦義村はどんな人物か」が面白すぎる。

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昨日も滅茶苦茶面白かった。

ここまでアッと言う間だった。

あと二回かあ。もっと続いて欲しいと思ってしまう。

と思いながら、今朝、三浦義村を演じる山本耕史のインタビューを読んだ。

 

「演じる役だから考える」ということとは別に、単純に「演じる俳優が自分の役を他人として見た時に、どういう人間と考えているのだろう」ということに凄く興味がある。

山本耕史から見た義村像は、「そこが義村の面白さだよな」と何度も頷くものだった。

*以下引用は全て上記インタビューより。太字は引用者による。

 

義村は、自分の得になることのためなら何でもする人という感じがするんです。

だから、幼なじみである義時はもちろん嫌いじゃないし、無二の親友だとも感じてはいるのですけれど、彼のために自分を犠牲にするかといったら絶対にそんなことはしない。

そこが義村のドライなところというか、怒りを感じたとしても、それをどのようにぶつけるのかというタイミングまでもずっとうかがっているような、そんな感じがしますね。

自分が考える義村の面白さは「嘘をつかない人」なところだ。

表面上は色々な嘘をつくし、裏では義時を裏切るようなことばかりを画策している。

ただ義村の一番根底にある「義時は幼馴染だし、無二の親友。でも三浦が一番大事」という部分は決してブレない。

「三浦が一番大事」なだけなら、さほど面白いキャラでもなかったと思う。義村の面白いところは、前段の「義時は幼馴染だし、無二の親友」も「三浦が大事」を優先しなければならない時以外は、本音であるところだ。

前々回の「公暁がお前を殺そうとしたら、俺はすぐにあいつを斬った」(うろ覚え)というセリフも、大嘘だと分かっていても信じてしまいそうなくらい、言葉や雰囲気に真実味がある。

義村はあのセリフは自分は本音だと思う。*1

「どちらも本音として存在し続け、常にその狭間に立たされている」わけでもない。

どちらも「その瞬間だけは本音」で、義村の中では何の矛盾も葛藤もなく、整合性が取れているのではないか。

 

「怒りを感じたとしても、それをどのようにぶつけるのかというタイミングまでもずっとうかがっている」

自分が今回のインタビューで「これが義村だ」と思ったのは、ここだ。

怒りを感じたとしても「今は出す時ではない」と思ったらサッとしまえるし、「今だ」と思ったらパッと出せる。

「しまっている」時は「義時は幼馴染だし、無二の親友」である心情だけが外に出ているので、結果的に本音になる。

しかし「今だ」と思ったらパッと出せるから、その怒りのままの言動が出来る。

「余りにシンプルすぎて、周りから見るとその真意がわからない人」

こういう人だと思う。

 

ーこれまで、畠山重忠、和田義盛など、かつての仲間たちとの争いが起こってきましたが、義村はそれらをどう思っているのですか。

きっと、「どうにかしないと!」って心を揺さぶられているのは義時で、こんなことを言ったらあれだけど、義村は正直そんなに…なんとも思ってない感じもあるんですよ。

義村は「瞬間の人」なのだと思う。

その瞬間については感情があるが、その瞬間が過ぎ去ると同時に感情も消えて行く。

だから仲間たちが生きているときはそれなりに気遣いもするし、仲間だと思い親身にもなる。その感情に嘘はない。

でも死んでいなくなれば、その人物に伴う感情も忘れる。

一般的には「薄情」ということになるが、余りそうは見えず「こういう人なのだな」と納得出来てしまう。義村は「瞬間のみに生きるシンプルさ」が徹底しているからだ。

「瞬間の人」である義村とは逆に、義時は「積み重なる人」だ。

何十年も前の宗時の「坂東を武士の物にして、その頂点に北条が立つ」という言葉を行動原理にして、ずっと側で見てきた頼朝から学んだことを忠実にこなそうとする。

学んだこと、心に残っていることすべてを真面目にこなそうとしすぎるために、悪役を通りこして周りから見ると怪物になってしまっている。*2

こういう二人の対比もいい。

 

僕、三谷さんに相談したことがあるんですよ。

「今後、義村が自分の思いを打ち明けるシーンとかってあるんですか?」って。

そうしたら、「いい質問です。ないです」と返ってきました(笑)。

おもしろい役ですよね(笑)。

「いい質問です。ないです」←この答え滅茶苦茶いい。

自分は義村には「打ち明けるほどの思い」はないのではないかと思っている。

正確には「打ち明けるほどの思いを残さない人」ではないかと思う。

この辺りも「打ち明けるほどの思いが常にあるのに打ち明けられず(打ち明けてはいけないと思いこんで)、どんどん思いがたまっておかしくなっていく義時」と対照的だ。

 

たぶん、「出る杭くいは打たれる」という言葉があるように、ど真ん中に行くと動きづらくなると思ったからなんですよね。

そういうのはやりたい人たちにやらせておいて、道のど真ん中とはちょっと外れた原っぱから、「あっちの道のほうが良さそうだな」と眺めている感じがすごく義村っぽいなと思います。

義村は自分の中の感覚に凄く忠実な人で、思考や感情よりも感覚を迷いなく優先出来る人なのではないか

「一匹狼が大きな群れで生きなければならなくなった時、生き残るためにどう振る舞うか」が体現されたような人物像だ。

義村の場合は「三浦」を背負っていたから色々と試行錯誤を重ねていたが、自分一人で乱世を生きたとしたら「あっちのほうが良さそう」という感覚ひとつで最後まで生き残りそうだ。

 

ドラマの中では、前半は義時の影に隠れて頼朝に目をつけられないように、後半は他の人物を操って義時に目をつけられないようにしていた。

だからしっかり出番もあるし本人が隠れている感じもないのに「何をしていたか」と思い返すと、意外と場面場面がブツ切りにしか頭に浮かんでこない。

義村の物語として「鎌倉殿の13人」として見たら、まったく違うイメージになりそうだ。

「あいつは嘘をつくとき必ず襟を触る」と言われていましたが、実はあれ最初からやっているんですよね。(略)

最初から見直したら、“心ここにあらずなとき”や“本心ではないことを言っているとき”に触っていると気がついたんですよ。(略)

ぜひコアなファンの方々はいつかDVDなどで見返していただいて、登場人物たちの変化はもちろん、義村がいつ襟を触っているのかも探ってみてください(笑)。

義村が「生き残るには不要なのに消せなかった唯一のもの」は、「襟に触るくせ」だったのかもしれない。

 

義村はESTPじゃないかと思った。

note.com

 

*1:襟は触っていなかったと思うが記憶が曖昧だ

*2:「こうならなければ」と決めたらとことんまで悪役になってしまうのが、損な性格すぎて見ていて辛い。