うさるの厨二病な読書日記

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「承久の乱」について。他の歴史解釈と「鎌倉殿の13人」のストーリーの違い。&第47回「ある朝敵、ある演説」の感想。

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承久の乱「後鳥羽上皇」惨敗させた三浦義村の決断 | 歴史 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

 

「吾妻鏡」における「承久の乱」が始まるまでの、主に三浦家の動きの解釈を書いた記事を読んだので、「鎌倉殿との13人」のストーリーと読み比べてみた。*1

*以下引用はすべて上記記事より。太字は引用者による。

 

義時が名指しされていることから、「後鳥羽上皇の目的は倒幕ではなく、義時を討つことだった」とする説もある。(略)

幕府の最高権力者である義時を征伐するということは、幕府を無力化することにほかならず、目的は「倒幕」以外のなにものでもない。これが「承久の乱」の始まりである。

「義時を討つ、ということは当然、鎌倉を倒幕するという含意がある」という解釈と「義時を名指ししていること」を字義通り受け取る解釈があるようだ。

この辺りは当時の風習や後鳥羽上皇の性格など周辺情報から、どちらが通説かはあると思うが、どうなのだろう。後で「承久の乱」についての本を読んでみようと思う。

素人考えだと、三寅を差し向けた後だから字義通り「(邪魔な)義時を討つ」と考えてもさほど不自然ではない気がするが。

「鎌倉殿の13人」は義時個人が標的という説を取っていた。

 

後鳥羽上皇はまず胤義を朝廷側につかせることで、兄の義村も味方に引き入れようとした。

『承久記』によると、上皇からのアプローチに対して、胤義はこんなふうに応じたという。

「このような院の仰せを受けたのは名誉だと思います。兄義村に手紙を出したならば、義時を討つことは簡単でしょう」

胤義は「先祖伝来の三浦・鎌倉を捨てて上洛し、院に仕えることは心の中にあったことです」とまで言っており、かなり前のめりである。

これが本当だとすると、胤義は随分うかつな人間だったんだなと思う。

 

しかし、要所要所で決して判断を間違えないのが、三浦義村という男である。弟の胤義から使者が訪れても、返事すらせずに追い返した。そして、義時に書状を出して、弟から決起を促されたことを伝えている。

「そうなるよな」という感想しかない。

「鎌倉殿の13人」でも事あるごとに強調されているが、武士たちは「自分たちの領地を保障してくれるから権威を認める」のであってその逆ではない。

胤義は「鎌倉の土地を捨てて、院にお仕えしたい」と思っても、義村を始め鎌倉の武士たちが同調するとはとても思えない。

「領地を安堵して、恩賞を与える」というほうが先だろう。

胤義は京にいたために、兄義村を始め、坂東の武士がどういうものかという空気感を忘れてしまったのか、元々そういうことを感じない性格だったのか。

義村と随分性格が違うように見え、しかも兄の性格をまったく把握していなさそうなところが面白い。

 

自分たちの守護が上皇につこうがつくまいが関係なく、地方の武士たちは「幕府と朝廷のどちらにつけば、自分たちの土地を保障してくれるのか」と考える。

だからこそ、後鳥羽上皇の挙兵が明らかになると、北条政子は御家人たちを御簾のそばに呼び寄せ、あの有名な訴えによって恩賞について強調したのである。

政子は坂東で生まれ育っただけあって、武士がどういうものかよくわかっている。

 

故右大将軍が朝敵を征伐し、関東を草創して以後、官位といい、俸禄といい、その恩は既に山よりも高く、海よりも深い。

この演説は情に訴えているのではなく「これからもこういう頼朝の方針を守る」という実利に訴えているのだと思う。

 

この言葉を聞くまでもなく、結集している時点で、義時に味方することを決めていたことだろう。それでも、こうして改めて宣言されることで、幕府の体制を堅持する意義の大きさを、御家人たちはかみしめたに違いない。

この演説は「承久の乱」の結果を文字通り左右したのでは、と思うけれど、「鎌倉殿」ではなくなっていた。

歴史的には「ここを変えたら歴史が変わってしまうかもしれない」と思う部分だが、「鎌倉殿」は義時個人の物語を優先させている。

創作であれば問題は感じないし、「鎌倉殿」はそのほうが圧倒的に良かった。

 

政子が言っていたように、「鎌倉殿」の義時は私利私欲のためではなく、ひたすら鎌倉のために「畏怖される権力者」であり続けた。それが余りに徹底しているため、「悪の集積地帯」になって憎まれていく、それを当たり前の義務だと思って弱音も吐けずに果たしている姿が不憫だった。

「ただの伊豆の片田舎の武士の次男坊が」と話していた時の義時には、能天気な父親と破天荒な兄の影で面倒なことばかりを引き受けていたかつてのお人よしな次男坊の面影があり、もらい泣きしそうになった。

立場が変わっただけで、昔から損な役回りばかりを引き受けている。しかしそれが義時であり、そういう自分で生きてきたら、ついには上皇から目の仇にされるまでに至った。それが感慨深い。

最終回直前に「義時が何のためにこうして生きてきたのか。坂東をここに生きる自分たちのものにするためだ。そのために朝廷とずっと戦ってきたのだ」という思いが伝わり鎌倉がひとつになる、そのことに義時が涙を浮かべるという流れが熱かった。

宗時から受け継いだ「坂東を武士の手に取り戻したい」その一心でやってきたことが、やっと報われたのだ。

 

来週はいよいよ最終回か。早く観たいが、観たら終わってしまう。寂しい。

 

*1:「創作」であれば歴史解釈は自由だと思っているので、「ここをこう解釈しているのか」「ここをこう膨らませているのか」ということを知るためのメモ。