うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「殺人を犯さなければ人間になれなかった」という矛盾をどう考えるのか。永山則夫「無知の涙」

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無知の涙 (河出文庫)

「無知の涙」を初めて読んだのは、永山則夫がこの本を書いたのと同じくらいの年齢の時だった。

その時は「何の罪もない人を四人も殺しているのだから、どんな言葉も言い訳でしかない」という気持ちしかなかった。

今回久し振りに読んでみたら、以前とは見方が変わった。

 

「自分の苦しみに社会は応えようとしてくれなかった。顧みることすらしなかったのに、殺人を犯したら自己実現できてしまった」

この事実は、本人にとっては*1殺人さえ肯定出来てしまうような強烈な根拠になりうる。

「殺人を犯さなければ、自分は一生知識を与えられず牛馬のように生きていくしかなかった、社会はそれを放置していた」と言われれば、反論することは難しい。

 

しかし本書の中で、永山はそういう強烈な実感の中で生きているにも関わらず、「罪のない人を殺したこと」を正当化しようとはしていない。

永山則夫のしたことは許されないし、書いてある思想については昔と同じようにさほど賛成出来ない。正直「何、言っているのかな」と思う箇所も多々ある。(最後のほうはそう思う箇所のほうが多い)

ただ今回読んで、永山は自分の犯罪を正当化するために「共産主義」を必要としたのではなく、「人を殺すことで、自分がこうなりたいと思う自分になれてしまった矛盾」を説明してくれるものが共産主義しかなかったのだろうと感じた。

逆説的に言えば、永山が共産主義にこれほど傾倒したことが、「悲惨な境遇だから人を殺しても仕方がない」という単純な自己正当化とは無縁だった証だったのかなと思う。

 

この本が広く読まれたのは、「社会の矛盾」を突いているからではなく、社会(の矛盾)の論理に取り込まれることなく、自分自身の中から湧いてくる葛藤や罪悪感という「個の部分」でも罪と向き合っているからだ。

だから自分のように永山の罪や考え方などに疑問を持つ人間でも、興味深く感じたり、時に心打たれる部分もあるのだと思う。

 

以下は印象に残った箇所の個別感想。

私は囚人の身となり(略)このような大事件を犯さなければ、一生涯唯の牛馬で終わっただろう。

人間ゆえ、思考可能な人間ゆえ私は知ってしまった。

知らなくてよいのではなく、唯知らなく、教えられないだけであった。(略)

私は若かった、しかしその青い怒りは当然の怒りだったのである。怒りは本物だった!

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P222/太字は引用者)

一般的に考えれば、何の罪もない人を四人も殺した、そのほうが人に非ざる者だ。

だが永山には、「人を殺したからこそ、牛馬から(思考可能な)人間になれた」という体感がある。

自分という存在に対するそういう抜きがたい実感と、その実感があってもなお沸き上がる罪悪感、そういう葛藤と矛盾の中に自分を落とし込んだ社会への怒り。

「無知の涙」はそういった混沌とした感情に、自分の言葉で輪郭を与えようとした本なのだ。

 

今まで論理的発言をすることが出来なかったのである。

それは「無知」という二字に尽きる。

そしてこの無知が私を狂わせたことを知り、また、社会全体の問題であることをも知ることが出来た。

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P243-P244)

「自分はこの事件を起こさなければ、社会に踏みつけられたまま、『踏みつけられている』と知ることすらなかった」「しかし、知るために何の罪もない人を四人も殺してしまった」この葛藤はずっとぐるぐる回っている。

客観的に見ればその葛藤が余りにキツイから共産主義思想を美化し、そのため資本主義社会を余りに邪悪なものとして描きすぎではと思う。

その思想自体の是非ではなく、構図として単純化しすぎではということが気になるが、永山が陥った葛藤を考えると仕方がないのかもしれない。

 

ぼくは鯨の背に乗って呑気に世界旅行をしている最中、食物がなくなった!(略)

ぼくはこまりにこまった。

そこで鯨に話すことにした。

「君を食べていいかい……そのう……つまり」(略)

「仕方ないよ」とひと言だけ。

もっと言って欲しかった……。(略)

ぼくが背中を喰っていって、それが大変悪辣極まる事だと気が付いた時!

鯨の三分の一を喰っていた。

ぼくは彼に謝った。

鯨は何も言わなかった。鯨は屍体だったのだ……。

ぼくはその日から孤独になったのだった。

生きる事の無意味さを悟る時、ぼくは自分の喉に、それまで鯨を苦しめたナイフを刺していた(略)

鯨とは自分自身の精神と悟るのであった。

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P284-P285/太字は引用者)

この鯨の話は滅茶苦茶好きだなと思った。

「『仕方ないよ』とひと言だけ」「もっと言って欲しかった」など自分に対する諦念が凄い。そうとうキツかったんだろうなと思う。

 

私が自己自身であろうとするために、そして、私が私という者を知るために必要な文章であるのだ。

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P367/太字は引用者)

永山は「自分がなぜ、自分とは関係ない人たちを殺してしまったのか」を知るために文章を書いている。

ここにも「もし永山が自分とは関係ない人たちを殺してしまう心性を言葉で説明できる人間だったら、そもそも殺人を犯さなかったのでは」という矛盾がある。

「自己表現が出来ないために他人を殺してしまう」「殺人が唯一の自己表現だった」という状況は、自分とさほど遠くない位置にあるのでは、と思えてしまう。

 

永山の事件のあと、現在に至るまで類似の「無差別殺傷」「理由なき殺人」が多く起こっている。

永山は「拡大自殺」という概念がなかった時代に、自分の起こした事件を「一種の自殺だった」とはっきり言っている。

このような自殺法は以前にあったのか?(略)

この事件は一種の自殺法なのです。(略)

この者は貧困の澱を喰い生活しているのであった。

しかし、あまりにも過度な耐えられないそれらの生活の連続ゆえ、悲しかり、生きようなどとは徐々段々に考えなくなり、果ては弱き自殺者へ変転していくのであった。(略)

この者は満たされぬ現生活に怒りを催すのであった。

それが弱き自殺者となる根本原因でもあり、それ以外の何でもないのであった。(略)

弱き自殺者となったらば、そこには死の思惑があるのみなのである。救いようのない絶望者となる訳である。

この者は殺人でなくとも、何か世間に唖然と驚愕を示したら、その弱き自殺者と成るのであるかもしれない。

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P256/太字は引用者)

今回読み直して、今の世の中で起こっている「拡大自殺」について的確に書き表していることに驚いた。

「貧困」は金銭的物質的な話でもあり、孤独など人間関係も含まれる。

 

彼が属する中核派は語調が強いだけで、全然その戦術は成っていないとはからずも思わなければならない。(略)

私は以前に現今の学生諸君の戦術的理論も、何時の日か現日本共産宮本路線のようになるだろうと予想を張り巡らせたが、最近の彼らの闘争運動は正にその予想と一致しているようだ。

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P441/太字は引用者)

まずそれには『影の軍隊』を組織することである。

この軍隊は、命知らずの勇者しか入隊は不可能な組織とすることが、第一の前提だ。それは、組織活動に相違ないが短期間に目的を達して消滅してしまう。否、消滅しなければならない『軍隊』なのである、という。

これはあまり大きくそいて小さ過ぎてもならない『軍隊』であるのだ。(略)

数人一組として、その他に多数のブロックが組織されているということである。そして、各ブロックは各々目標物が異なってくるが、あるブロックが目標物とするものの攻撃に失敗した場合には他のブロックがすぐその目標とするものに攻撃するという風な一種の人海戦術的テロ行為を常として活動するのである。

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P463-P464/太字は引用者)

この下りは読んでいて笑ってしまった。

もちろん実際のそういう行為自体には反対だけれど、自分も「自分だったらこうするけどな」と考えてしまうことがある。

永山の場合は、自由の身だったら本当に参加する気だったからそこはどうかと思うけど。

 

私は思う。ブルジョアジーはプロレタリアを裁く権利がないということを。

資本主義的生産様式に源を発する無政府状態がその社会内に起る。

その中にあって、法律の云々という文句を吐いて何らかの彼らに対して問題となるものを裁くということ自体、いわば基底的矛盾であり、したがって率直的表現をするのであれば、裁くという行為自体一種のそれこそ合法的暴力行為である。

(略)暴力には暴力をもってしか立ち向かえないとすれば(略)その司法の裁判というものに対しての拒否態度、これらは妥当性を帯びたプロレタリアとしての自己立存手段であると各自己自身内で確信し、そしてその行動をとるのが当然であると思う。

(引用元:「無知の涙」永山則夫 河出書房新社 P509太字は引用者)

共産主義思想に触れた永山にとっては、資本主義社会を基盤にしてそこから生まれた、法律や権力機構そのものが矛盾になっている。

共産主義や左翼の思想*2は、既存の社会の枠組み自体に疑問を持っているので、法律も権力の抑圧装置としてしかとらえていない。

「司法の裁判というものに対しての拒否態度、これらは妥当性を帯びたプロレタリアとしての自己立存手段であると各自己自身内で確信し、そしてその行動をとるのが当然である」

ひとつひとつの言動によって自らの存在(精神)が作られるという発想なので、「刑事との雑談に応じた」「取り調べでかつ丼を食べた」なんていう今から見ると冗談かと思う理由が総括につながったりする。

「人の内面の変革することによって社会が変革しうる」「個人のシステムと社会システムを同一化する」という発想が怖い。

各国の歴史を見ても、結局、枠組みを壊した後に残るものはもっと大きな矛盾や荒廃でしかない。

そして壊した後の責任は壊した人間は取らない。

 

「思想の正しさを自分の正しさだと勘違いした人間はとんでもないことをする」

と思っている自分からすると、この本に書かれた永山の共産主義への傾倒ぶりには疑問を感じる。考え方もほぼ賛成できない。

ただ永山が自分が犯した罪に正面から向き合い、そこから生じる葛藤を余さず書こうとした点には好感が持てた。

 

自分が永山則夫を最初に知ったのは、佐木隆三のこの本。

今回一緒に読み返そうと思ったら、在庫がなかったようで注文取消しで帰ってきた。残念。

 

*1:永山風に言えば「実存的に言えば」

*2:今の時代の個々の人たちの考え方はもちろん違うと思うが。