「エネアド」にハマった勢いで、「エジプト神話について読んでみよう」と思い購入。
作内で当たり前のように語られている「死者の魂を集めなければ呪いになる」などが、どういう設定なのかを知りたかった。
他の宗教のように「魂が離れたから死者になる」のではなく、「死者にとっても魂が重要なのだろう」と何となくはわかる。
ただ周辺の設定を理解していないと、作内で起こっている事象の意味が完全には把握できない。それでも十分面白いが、学べばもっと面白さが広がると思い読んでみた。
「エジプト神話」は、様々な地域の伝承のパッチワーク
「エジプト神話」のポイントだと思ったのは、以下の部分だ。
エジプト神話の大きな特徴は「矛盾だらけ」なこと。
神話は多くの伝承をパッチワーク的に編募しているため、どの地域のものでも異説や矛盾はあるが、エジプト神話はそれが群を抜いている。(略)
このように体系的に整えられていないため、エジプト神話は複雑でややこしいと言われることが多い(後略)
(引用元:「ゼロかわかるエジプト神話」かゆみ歴史編集部/株式会社イースト・プレス P3-4)
エジプト神話はひとつのはっきりとした神話体系ではなく、各地域で生まれた神話の中で似た性質のものをつなげてまとめたものだ。
またファラオの権威づけが「神の子孫であること」であるため、政治事情から神話の形が微妙に変形したりなど、政治→信仰への影響が強い。
地域ごとに信仰されていた神は、時の流れと軍事的な理由により、幾度が「合併」されたものと考えられている。(略)
神の中に複数の呼び方、様相の多面性をもつものがいるのは、このためであるといわれる。
(引用元:「ゼロかわかるエジプト神話」かゆみ歴史編集部/株式会社イースト・プレス P15)
エジプト神話の神は、動物をモチーフにしていることが多いが、これはエジプトの人々が動物に人間にはない力があるとして神聖なものとして崇めていたためである。
「動物の能力」→「神の性質」→「その性質からエピソードが作られる」という形で、神話が作られている。
それぞれの動物に神性がある、という考えは、同じ多神教である日本に馴染みやすそうだ。
まとめると「エジプト神話」は、こういう特性を持つ。
①元々は色々な地域で別々に生まれた神話の集合体である。
②本来別々の神が、性質によってひとまとめにされることが多々ある。「習合」という概念が重要。
③それぞれの地域の信仰を組み合わせることで、違う文化の地域をひとつにまとめてようとしている。(ひとつの国として統治するため)
「エジプト神話」の死生観は、「死んでからが本番」。
「エジプト神話」において、人間は、
①「カー」=生命力そのもの。魂。
②「バー」=その人の性格。個性。
③「レン」=名前
④「シュト」=人の中に潜んでいるもの。影。
⑤「イブ」=心臓。永遠の命を得るために決して失ってはならないもの。
この五つから出来ている。
特長的な死生観としては
(1)「イブ(心臓)」は、死んだ後も失ってはならない。
(2)死んだあとは、「カー(魂)」+「バー(性格)」=「アク≒永遠の命」になれば死者は楽園で暮らすことが出来る。
がある。
「死んだあとが本番」であり、生前は「楽園に行くことを目指すための準備期間」と考えるとのみ込みやすい。
「エネアド」では、オシリスがセトと対峙した時に「自分は創生の力を持たないので、ゼロから魂を生成できない。だからアヌビスの五要素を、自分とセトの子供の中に入れることにした」という説明をしている。
(引用元:「エネアド」第42話 MOJITO)
「肉体以外は全部アヌビスなのだからいいのでは」とつい思ってしまうが、セトは今のままのアヌビスがいいのだろう。(それはそうか)
生きている間は「アク(永遠の命)を得て楽園に行くための準備期間」であり、死ぬと「死者の審判」を受ける。
審判をクリアすれば、永遠の命を得て楽園に行ける。審判で罪人だと判断されれば、心臓を幻獣アミメトに食われ二度と生まれ変わることが出来ない。
表向きはさほど悲観的ではないが、よく読むとグノーシス主義のような厭世的な生命観だ。
「オシリス神話」について
オシリスは穀物の神でもあり、古代エジプト人が農耕生活であったために生まれたとされる。
セトがオシリスを殺したのは、暴風が実った穀物をバラバラと地上に吹き散らす様子を描写しているというのだ。またオシリスの蘇生は、種が発芽することを象徴的に表現しているともいえる。(略)
穀物神であるオシリスはバラバラに撒き散らされることで、各地に恵みをもたらすのだ。
(引用元:「ゼロかわかるエジプト神話」かゆみ歴史編集部/株式会社イースト・プレス P54-55)
「せっかく苦労して育て収穫を待つばかりだった穀物が強い風によって駄目にされてしまう、しかしそれによって撒き散らされた穀物がまた大地に根付いて芽吹く」
セトがオシリスを殺害する神話は、そういう農耕民族の生活を託した物語なのだ。
そう考えると
「お前は俺の土であって、俺はお前の樹木であり、お前は俺だけの肥沃な土壌となって生まれ変わるだろう」(44話)
という「エネアド」のオシリスの言動は、事実(神話)に対するただの解釈違いと言えないこともない。
また、セトがホルスを襲うエピソードも元の神話にある。これはかなり驚いた。
起死回生を狙ってホルスを愛人にしようとすればその行為の不潔さをなじられてしまう。
(引用元:「ゼロかわかるエジプト神話」かゆみ歴史編集部/株式会社イースト・プレス P63)
「エネアド」は神話の要素を取り入れて好きに物語を作っているのではなく、見方を変えているだけで神話の構成や要素にかなり忠実なのかと改めて感心した。
神話は王の権威の正当性の根拠や箔付けとして用いられる。
「オシリス神話」は、ファラオが統一エジプトを統治する正当性の根拠として作られた面が大きい。
オシリス神話は上エジプトの国家神ホルスが全エジプトの国家神となることの正当性を強調しているのだ。王はホルスの化身とされ、(略)「現人神」とされた。
このため、歴代のファラオはホルスの子孫といわれ、神の化身として古代エジプト王国を絶大な力で支配していったのである。
(引用元:「ゼロかわかるエジプト神話」かゆみ歴史編集部/株式会社イースト・プレス P71)
この辺りの神話と国の成り立ち、統治の関係は、日本とよく似ている。
地理的にだいぶ離れているエジプトと日本の相似は、同じ農耕民族であるからかもしれない。
第18王朝のアメンホテプ四世は、ラー以外の太陽神だったアテンを唯一の神とする一神教を布教しようとした。だがまったく根付かず、子供のトゥトアンクアメンの代にアテン教は廃止される。
これもアテン以外の太陽神であるアメンの神官の力が強く、その力をそぎたかったという政治的な理由が大きかったようだ。
エジプト神話は、「神の教えや権威が絶対的であり、現実の人々はそれに従う」という従来の宗教のイメージとは逆で、その地に生きる人の現実の事情の反映によって作られており、現実によって神話のほうが変化していく。
よく言えばおおらかで現実的、悪く言えば大雑把で確たるものがないという印象だ。
だから現代でも物語のモチーフとして、すんなり馴染みやすいのかもしれない。
「エネアド」と同じ、「オシリス神話」をモチーフにした話。
「災禍の神」のラーは、
ラーは無力な老人として描かれることもある。(略)よだれを垂らすほど弱っている(略)
(引用元:「ゼロかわかるエジプト神話」かゆみ歴史編集部/株式会社イースト・プレス P126)
こっちだった。