*ネタバレあり。未プレイのかたはご注意ください。
感想:「夜」を怖さを「これでもか」と楽しめる。
「夜廻」の二周めをクリアした。
一周めは途中で嫌になるくらい死にまくったが、二周めはパターンを覚えていたのでさっくりクリアできた。
ゲームはごく単純なステルスゲームなので、面白さの肝がゲーム部分であれば二周めはやろうとすら思わなかっただろう。
二周めが面白かったのは、このゲームの難である「ゲーム性」がほぼなくなり、夜の町を歩き回る楽しさ、その雰囲気、謎めいたストーリーを十分楽しむことが出来たからだ。
一周めは楽しさも爽快さもゼロ、とにかく理不尽に感じられストレスが溜まるだけだった。
出来る事も限られているため、こう工夫しよう、こうやってみようと考える意欲さえわかない。
ホラーでステルス、心臓ドキドキ音といえば、「シャドーコリドー」を思い出すが、ゲームとしてなら「シャドーコリドー」のほうが圧倒的に面白い。
このゲームはゲームでありながら、「ゲーム部分」が面白さを阻害する邪魔な要素だった。
なぜプレイするだけなら苦行のようなゲームをクリアするまでやったのか。
夜の町の雰囲気がとてもよく、歩き回るだけで楽しいからだ。
「夜廻」の面白さは「夜」の怖さだ。
ここで言う「夜」は、「陽が出ていない時間」のことではない。
「陽が沈むと同時にやって来る異世界=日常とはまったく違う、人間ではないものが支配する世界」のことだ。
わたしには町が、昼とはまったく別の姿に変わっているように見えた。
いつも通りかかる家の形が変わっているわけではないし、道の広さだって同じはずだ。だけどそこにいるなにかが違う気がする。(略)
それは夜の町を見回っている。(略)
それに近づいた子どもは、大きな袋に入れられて、どこかに連れていかれる。
だから子どもは、一人で夜の町を歩いてはならない。
(引用元:「夜廻」保坂歩 溝上侑 日本一ソフトウェア/太字は引用者)
人間には理解しがたい力によって支配され、社会のルールが無力になる世界が強制的に訪れる。まるで見えない力によって強烈な結界が生まれるように。
そのために町の人は外に出なくなる。
昼とは違う自分には理解できない暗い世界を、懐中電灯をひとつ持って歩き回らなければならない。
(©日本一ソフトウェア)
風景が昼間とまったく同じだからこそ、違いがいっそう際立つ。
かつて「夜」というものが人にとってどれほど恐ろしいものであったかを思い出させられ、畏れるべき「夜」を存分に味わうことが出来る。
(©日本一ソフトウェア)
昔、夜の町を歩き回るのが好きな子供だった自分にとって、
「夜と昼では世界が違う」
というのは馴染み深い感覚だ。
「夜」は自分が生きる世界とは違う世界であり、外に出て行くだけで異世界に行ける。だから怖くて不可解だとしても、その世界へ出かけてしまう。
そんな懐かしい気持ちがあるためか、「子供が夜の町の歩き回る」という設定だけで惹かれてしまう。
かつて「夜」は、人には理解しがたい恐ろしいものだった。
そんな畏れを理屈抜きで体感させてくれるゲームだった。
余談:主人公の「私」が可愛いすぎる。
(©日本一ソフトウェア)
主人公の「私」は、大きなリボンに背中にはうさぎのリュックをしょい、台詞にはひらがなを多用し、極めつけが行方不明の飼い犬を探すというストーリー。
「私」が健気に一生懸命走る姿を見ているだけでも、けっこう見ていられる。「スパイファミリー」で、アーニャしか見ないのと同じだ。
ゴリゴリの畏怖系ホラーをポップな絵柄で表現する、という発想が良かった。
設定&ストーリー考察
*小説版を序盤しか読んでいない時点での考察
この町は、ずっと「夜」に支配されていた世界であり、むしろ昼間が「夜」の支配から逃れられる時間なのではないか。
夜まわりさんが徘徊し、子供を連れ去る世界で、人々は息をひそめるように暮らしていた。夜まわりさんなどのお化けを鎮めるために、山の手の神やムカデの神社に頼っていた。
しかしいつしか「夜」の恐怖が忘れられ、林の中の古新聞に書かれていた山の神社の祭りがなくなり、「夜まわりさん」が徘徊するようになった。
トンネルの中では「私」を追いかけてきた「袋のお化け」を、手のお化けが撃退する。
手のお化けは元々はこの地を支配し守っていたものであり、祭りがなくなることでその支配が弱まった。
そのため袋のお化けが町を徘徊し、子供をさらい廃工場に閉じ込めるようになる。
(©日本一ソフトウェア)
商店街も、お化けによって浸食されている。
ムカデの神社が商店街を守っていたが、ショッピングモールの進出と共に取り壊されることになった。
「袋のお化け」は手のお化けやムカデなどの、町を守っていた神々の力が弱まったことに乗じてこの地を徘徊するお化けたちを蘇らせようとする。
塩を渡してお化けたちを鎮めてくれるムカデの神社がなくなることで、町の「夜」はこの先さらに深くなり、お化けたちも徘徊するようになる。
主人公と姉はからくもその「夜」の世界から脱出できたが、代償として「私」は手のお化けに左目を差し出さなければいけなくなった。
メインストーリーはこんな感じかなと思っている。
プレイしていて一番気になったのは、「なぜ『私』の家には親がいないのか」ということだ。
小説版では「母親は死に、父親は仕事が忙しく夜が遅い」と書かれているが、違和感がある。第三章の「田んぼ」終了時点の日記が「ひとりぼっち」だからだ。
いくら父親の帰りが遅いと言っても、中学生と小学生の娘二人を残した家に、一晩帰って来ないとは考えづらい。
しかしそれにも関わらず、「私」は姉とポロがいなくなったら自分は「ひとりぼっちになる」と考える。
設定では父親も町の人も存在する。昼間になれば学校も田んぼも商店街も行き慣れたものに戻るはずだ。
頭ではそうわかっても、まったくそう感じることが出来ない。
「私」の頭の中には、父親は存在していない。*1
これは「現実に父親が存在していない」以上に怖いことだ。
ゲームの中で二回、「私」は電車を目撃するが、その電車は日常で乗ることが出来る電車と同じものとは感じられない。道ふさぎや夜まわりさんと同じで、自分には理解しがたい別種の生物に見える。
だから主人公が曳かれそうになっても電車が止まる気配もなく、大騒ぎになることもないことが不自然に見えない、どころか当然のように思える。
あの電車は、「私」が生きる日常とはまったく違う世界の、理解しがたい法則の中に存在しているものなのだ。それなのに、昼間になれば自分が乗ることのできる電車に戻る。
「普段自分の日常で当たり前だと思っているもの」が昼間と夜という切り替わりによって、「自分には理解しがたいもの」に変化してしまう。
「夜廻」が持つ怖さはそういうものだと思うのだ。
小説を読み終わったら、もう少し考えるかも。
「深夜廻」を始めた。
女の子と男の子の組み合わせかと思っていたら、女の子二人の組み合わせで驚いた。まさかの百合ICO。
操作性などのゲーム面もかなり改善されて、できるアクションも増えているので期待大。
*1:自分の好みの言い方で言えば「存在はしていても機能していない。ゆえに存在していない」ということになる。