*本記事には映画「THE FIRST SLAM DUNK」、漫画「SLAM DUNK」のネタバレが含まれます。ご注意ください。
噂にはちらほら聞いていたが、まったく別物で驚いた。ストーリーが土台から違う。
「主人公を宮城に変えた」というより、「描きたいことがまったく違うので、必然的に主人公が変わった」のではと思った。
原作者による「原作が解釈違い」である。こんなことがあるのか。
映画版と原作の違いは、23巻の水戸のセリフが表している。
映画「THE FIRST SLAM DUNK」と漫画「SLAM DUNK」の違いは、完全版23巻で水戸が言ったセリフに尽きる。
かつての花道なら、絶対に殴っているよ。試合なんか関係なしに。
ああ、あいつ大人になったな。
いや、そうじゃねえ。
(引用元:「SLAM DUNK 完全版」23巻 井上雄彦 集英社/太字は引用者)
漫画「SLAM DUNK」は自己探求の果ての自己実現の物語
漫画「SLAM DUNK」は、桜木が「自分がバスケット選手であることを知る(自分が何者であるかを悟る)物語」だと思っている。
一見、スポーツという多くの他人に関わるジャンルに見えるが、根本は内省による自己探求、自己実現の話だ。
桜木は主人公でありながら、ほとんど背景を持たない。
父親が倒れたシーンが一回だけ出てきたが、それ以外は家族構成や過去がわからない。部活以外の学校生活も初期以外はほぼ出てこない。
桜木が背景を持たないのは、「背景=自己を構成するもの」を知らない*1からだ。
桜木はバスケコートという「自己のスペース」の中で修練と葛藤を繰り返し、内省することで「自分は何者であるか」を悟っていく。
「SLAM DUNK」は桜木以外も背景がない登場人物たちが多い。彼らは背景を持たないまま自己の内部である「コート」に立ち、自己探求のためにバスケをプレイする。
背景を極限まで削っているから、「自分とは何であるか」を追求することが可能なのだ。
「スラムダンク」の世界には、「現在進行形で進んでいるバスケに関する物事」以外のものがほぼ出てこない。「物語内では存在しない」と言っていい。
主要登場人物の多くは「現在進行形で行っているバスケットのプレイ」で自分たちの全てを表現していている。(略)
何かの経験や環境、属性などの情報を組み立ててキャラクターを作っていくのではなく、「彼らがバスケをする姿」という情報のみを見せることによって、読者に彼らがどういう人間かということを想像させる。しかもそれが主人公だけではなく、登場人物ほぼすべてがそうだ。
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原作「スラムダンク」はこういう話ではないかと書いた。
そしてその中で、
普通はキャラを立てるとき、「三人兄弟の末っ子」とか「〇〇が趣味」「親がバスケをすることに反対している」とかそういう属性を付属してそのキャラクターを作っていく。現実の人間も、どのような環境で、どのような境遇で、どのようなことを経験して、どのようなことを考えて、どのような行動をとって、ということから「人格」が出来上がるからだ。
ところが「スラムダンク」は、逆の手法をとっている。
とも書いた。
漫画「スラムダンク」とは逆の「普通の話」。
キャラにはストーリーが始まる以前の背景があり、そこから人格が生まれ、葛藤が生まれ、それがストーリーに反映され(多くの場合)解決に向かう。
コートは「自己というスペース」ではない。
それまでの人生の積み重ねの中で立つ場所であり、バスケのプレイは自己探求の手段ではなく、これまでの人生を生きる上での支えだった。
「バスケをやることで自分がバスケット選手であることを悟る話」ではなく、「バスケット選手である自分が大人になっていく話」。
それが「THE FIRST SLAM DUNK」だった。
映画「THE FIRST SLAM DUNK」は、他人との関係性の中で成長する(大人になる)物語
「THE FIRST SLAM DUNK」は、「自分が何者であるか」という自己探求を行う原作「 SLAM DUNK」とはほぼ真逆の話である。
宮城は自分が何者であるかという背景を周り(社会)から押し付けられており、そのことに苦しんでいる。
「兄に勝てない弟」だから「自分が死ねばよかった」という罪悪感を抱え、「兄に憧れる弟」だからその夢を受け継ぎ乗り越える。
他人との関係から生まれるテーマを抱えている。
「THE FIRST SLAM DUNK」は、兄ソウタを初めとする、他者=社会との関係性の物語である。宮城は、その関係性から生まれる自分の中の痛みや喪失感を乗り越えて成長する(大人になる)。
「原作は内省による自己探求の物語であり、映画は社会における自己確立の物語」
その違いは他のキャラの言動にも表れている。
自分が一番「おっ」と思ったのは、三井がバスケ部に戻った時、全員の前で頭を下げたシーンだ。
原作では三井が部員たちに謝罪するシーンはない。現実で考えればこれは凄く不自然だ。
だが原作は自己の内部の物語であり、極端なことを言えば「社会(他人)との関係性は二の次」なのだ。
だから三井の自己葛藤が終わり自己探求の場に戻った後は、社会との関係性の修復のシーンがなくてもギリギリ成り立つ。(正直、それでも不自然だとは思うが)
だが映画は社会との関係性がメインであるため、三井は宮城以外の部員や体育館では暴力を振るっていない+きちんと全員に対して頭を下げてからコートに入っている。
罪と謝罪のバランスが原作よりもずっと自然になっていた。
映画では三井だけではなく、赤木や流川が個人で抱えている問題を、さらに宮城に集約して見せている。
赤木はワンマンであることを指摘され、「自分はひとりぼっちだ」という内心の声に悩まされていた。それは沖縄から転校してきたときに、バスケをする仲間がいなかった宮城の状態と重なる。
またバスケが出来ずに自棄になっていた三井と同じように、宮城も自棄になりバイクで事故を起こす。
一年生の時に「コミュニケーションを取れ」と指摘されたことは、「流川と初めて会話をした」ということに表れている。
彼らは別々の人間だが同じような問題を抱え、それを仲間としてやっていくことで解決し、ひとつのチームになったのだ。
最後にゴール前で倒れた桜木を顧みず、ゴールに向かって走る宮城を見た時は感動した。ソウタの死や、そこから生まれていた痛みや罪悪感を乗り越えたことを表しているからだ。
「原作とはまったく別物であること」にむしろ大満足した。
原作で自分が好きなセリフやシーンは、ほぼ削られていた。
魚住に鼓舞されて赤木が立ち直り「現段階で俺は河田に負ける」「でも湘北は負けんぞ」と吼えるシーン。
魚住が自分が田岡からかけられた「向かっていけ。そのデカい体はそのためにあるんだ」という言葉を、コート上の赤木に向かって叫ぶシーン。
木暮が涙を流す赤木を見て「こんな仲間が欲しかったんだもんな」と思うシーン。
背中を痛めた桜木に河田が「俺は向かってくるなら手加減できねえ男だ」と言うシーン。
そもそも主人公である桜木の名シーン「大好きです。今度は嘘じゃないです」すらなかった。
それが良かった。
自分にとって何度も反芻する大好きなシーンばかりだが、映画の物語とは何の関係もないシーンだからだ。自分が好きなシーンは、映画の物語ならばむしろ出てくるはずがない。
だがそれでもあれだけ完成されて面白い原作を、あの名シーンをあの名セリフを、当の生み出した本人が描きたいストーリーのためにすべてなくしたその決断の潔さに感動してしまう。
最後アメリカで宮城と沢北が対峙するなら、山王戦の中でその展開につながるような絡みを入れたほうが締まりが良くなったのでは、というところだけ唯一気になった。
沢北のライバルは流川であるという描写は原作のままだったので、つながりがちぐはぐに感じる。
ただそれも強いて気になる点を上げるなら程度だ。
原作の大ファンで何度も繰り返し読んでいる。そんな自分も、原作と比べるのではなくまったく別の作品として感動して楽しむことが出来た。
原作で一番好きなシーンは、泣き崩れる魚住に田岡が夢を語るシーン。
*1:作内設定ではそんなわけがないが、メタで見たストーリー的には桜木は「己の要素をまったく知らない状態でコート(自己のスペース)に立つという意味。