インタビューの答えがそのまま書いてあった。
小川哲のインタビューを読んで、「君のクイズ」に興味を持ち読んでみた。
自分は創作を読む時には作者という概念が頭から消えるタイプなのだが、これは読み終わったとあとに「インタビューの答えがそのまま書いてあったな」と思った。
*以下はネタバレが含まれる感想なので注意。
「君のクイズ」は自分にとって、三つの読みかたが出来る話だった。
①クイズという競技の特性と競技者であるクイズプレイヤーの思考について。
②クイズに仮託された主人公の世界観、人生観。
③本庄絆に集約されるものへの皮肉。
「クイズ」という異世界。
クイズはクイズプレイヤーではない人間が一般的に考えるような「知識の量を競うもの」ではない。作内ではそのことを、しつこいくらい明記している。
クイズとは覚えた知識の量を競うものではなく、クイズに正解する能力を競うものだからだ。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
「ちなみに、クイズは知識の量を競っているわけじゃないよ」(略)
「じゃあ、何を競っているんですか?」
「クイズの強さを競っている」
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
クイズは知識や頭の良さといった「現実の世界の基準」で競うものではない。
ルールがあり、ルールから生成されている文脈がある。その文脈によって形成されている、現実とは異なる法則性を持つひとつの世界なのだ。
三島はクイズを始める前の幼いころから、「クイズ」という自分独自の世界を作ってきた。
この下りは自分と重なる部分が多かった。
その後、「深夜」という言葉を初めて知ったとき、僕はしばらく納得がいかなかった。(略)
当時の僕は「夜が深いとはどういうことだろうか」と真剣に悩み、結局そのときは納得することができなかった。(略)
そのころには「深夜」という言葉の詩的な含意が気に入るようになった。
太陽が夜の海に溶けてゆっくり沈んでいく。やがて太陽は夜の海の深い底へ潜ってしまう。人類で初めて「深夜」という言葉を発した人の心と僕の心が、長い時を経てつながる。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
自分と似ているなと思ったのは、「言葉の意味に強い引っかかりを感じることがあった」という具体的な事象ではない。
まったく知らないものを知ったことがきっかけで、想像の力で現実とはまったく別の世界を創造してしまう、そしてそこに現実と同じくらい(むしろそれよりも)強烈なリアリティを感じて生きてきた。
そういう点だ。
自分は三島とは違い、自分が身を置いている世界のルールしかよくわからず、現実の世界のルールがうまく把握できなかった。いま思えば*1現実が異世界みたいで、そこで訳のわからんゲームをやらされているみたいでキツかったな、とその時のことを思い出した。(ちょっと泣けた)
主人公の三島玲央は、幼いころから作り続けてきた「クイズ世界」で生きている。
三島と本庄絆との戦いは、「クイズ世界」と「現実(の世界)」との戦いなのだ。
本庄絆は「現在、日本で一番クイズの理に近づいている人物だと思います」と答えてから「ですが」と続ける。「私の頭には世界が入っています」(略)
「さて、クイズ対世界、どちらが勝つのでしょうか」
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
「クイズ」という異世界にいるから、光も暗闇も知ることが出来る。
なかなか眠りにつけない夜、僕はときどき「アンナ・カレーニナ」がどんな話か想像するという遊びをしていた。(略)
アンナという女の子と、カレーに関係する話だと思って、いくつもの話を想像した。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
まだ字が読めなかった時、自分は家にあった絵本を繰り返し読んでいた。
字が読めないから絵を見て、自分で勝手に話を作り続けていた。10ページくらいしかない絵本だけど、話が無限に出来る。字が読めない時は、本は一冊で十分だった。
字が読めるようになって、どんな話かわかったら凄くがっかりしたことを覚えている。この本はこの話になってしまい、もう無限に話を生み出せるものではなくなってしまった。
物事というのは知れば知るほど世界が広がるのではなく、限定されていくのだ。
子供の時に自分が感じた失望は、言葉にしたらこういうものだったと思う。
だけどすぐに気付いた。それは「一冊の本の可能性」を限定しているだけで、文字を覚えたから「それ以外の多くの本」に世界の可能性を広げることが出来るのだ。
クイズに正解したからといって、答えに関する事象をすべて知っているわけではない。
ガガーリンの「地球は青かった」という言葉を知っていたとしても、ガガーリンが見た地球の青さがわかるわけではない。
むしろクイズに正解するということは、その先に自分がまだ知らない世界が広がっていることを知るということでもある。
ちなみに、正確にはガガーリンは「地球は青かった」とは言っていない。彼は「空はとても暗かった一方で、地球は青みがかっていた」と言った。
僕はクイズをしていたから、この言葉を知っている。
僕はこっちの方が好きだ。
僕たちが空だと思っているものが、実は太陽光が見せる幻にすぎず、それでもやはり地球は青いのだと教えてくれる。
僕は「深夜」という言葉を思い出す。
僕は深い海に沈んだ太陽だった。光を照らす部分を、僕は見ることができる。しかし、光は海底までは届かない。
僕は海の中を漂うにつれ、自分の目に見える景色の小ささと、海の広さを知る。
見ることができなかった暗闇の深さを知る、そんなことを考える。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
この箇所が滅茶苦茶好きだ。この本の中で屈指の名シーンだと思う。
三島は「深夜」という言葉によって、深い海に沈んだ太陽になる。そこは「深夜」という言葉を最初に発した過去の人とつながることが出来る異世界だ。
その自分がいる異世界から「クイズ」という媒介を通すことで、現実で光で照らされた部分を見ることが出来る。
そうしてその現実を照らす光を見たからこそ、自分の周りにあるものを暗闇であると認識し、「深夜」を知ることができた。
「深夜」という言葉を知っていることが、「深夜」を知ることではない。
クイズをすることで、三島は「深夜」を、世界を知ることができる。
読んでいて「本当にその通りだ」といちいち泣けてしまう。
クイズなのか? 魔法なのか? それは三島の実存に関わる。
三島は自分が培ってきた「クイズ」という世界観を通して、本庄絆を見る。
三島は本庄絆に対しては何の思入れもない。だが「クイズ」には強い信仰(というよりは実存的な実感)がある。
気がつくとパソコンを殴っていた。(略)
彼らは一見謝罪しているように見えて、実は何も謝っていない。
混乱を招いた? 期待を裏切った? そういうことじゃない。(略)
最終問題がヤラセだったのか魔法だったのか、それともクイズだったのかわからなかった。
これが「説明」だというのなら、すべてのクイズプレイヤーを舐めている。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
まずはこれが「クイズの世界の話」なのか「現実の世界の話」なのかはっきりさせて欲しいのだ。
ヤラセだったらヤラセでいい。(良くはないが、この時点では問題ではない。次の段階の話である)
ヤラセであれば、それは「クイズの世界」の話ではないからだ。
本庄絆が一文字も聞いていない問題を解答できたのは、ヤラセだったのか(現実の世界の範疇か)クイズなのか、魔法なのかを知ろうとするのは、三島が「クイズの世界」で生きている人間だからだ。
世界に広がりはある。しかし限定されることによって世界は世界なのだ。
無限の広がりがあり可能性が限定できない。そうなったら「クイズ」は「世界」ではなくなってしまう。そこでは三島はクイズオタクではなく魔法使いにされてしまう。
だからクイズは魔法であってはならない。
そういったやりとりが積み重なって、クイズプレイヤーは魔法使いだと見なされていく。(略)
視聴者はそうやって信じてしまう。クイズプレイヤーは、魔法使いなんだ、と。(略)
僕は自分が魔法使いではないことをきちんと説明すべきだった。説明しなかったせいで、本庄絆の優勝に正当性があると考える人や、僕がヤラセに加担したと見なす人が出てきたのだ。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
僕たちは魔法使いなのではない。ただのクイズオタクなのだ。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
「本庄絆が一文字も問題文を聞かずに解答できた理由」を知らずに三島は生きていくことは出来ない。自分が生きるために、何としてもその謎を解かなければならない。
他人事ながら緊張で心臓がバクバクする。
「クイズの世界」が導き出した誤答
そして三島は、ついに「本庄絆が解答できた理由」がやはりクイズであったことを本庄自身の口から突きとめる。
三島は「本庄絆が解答できた理由が、ヤラセなのか魔法なのかクイズなのか知りたい」と思ううちに、知らず知らず自分と本庄を重ね合わせていた。
たくさんの過ちを犯したかもしれないが、その過ちのおかげで答えられるクイズもある。クイズに正解すると、「そんな過ちも成長のための経験だったのだ」と言ってもらえたような気がした。
世界が変わればクイズも変わる。世界とクイズと自分はつながっているのだ。人生がクイズの連続なんだ。
本庄絆もきっとそういう思いをクイズに抱いていたのだろう。だから一文字も聞かないクイズに答えることが出来たのだ。
しかし本庄絆の言葉は、そんな三島の思いをあっさりと裏切る。
人物同士が作用し合わないシニカルさ。
三島は本庄の言動に失望する。
失望したことで、自分が当たり前のように「クイズ」という自分だけの世界観を通して本庄という他人を解釈していたことに初めて気付く。
別のもので解釈すべきところで、「クイズの世界」のルールに従ってしまったのだ。
僕だって、本庄のファンと変わらないのかもしれない。彼がSNSで沈黙しているのは、彼なりに反省しているからだと思っていた。(略)
でもそれは、僕が勝手に作りあげた「本庄絆」という偶像に過ぎなかった。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版)
三島はついに探し求めた本庄絆自身の説明を聞いて、「汚い言葉を口にしてしまいそう」になり席を立つ。もう二度と本庄絆には会わないと思いながら。
この話が徹底しているのは、話が始まる前と終わった後で三島がまったく変わらないところだ。
三島は元々、自分が拾えなかった問題については忘れて切り替えるようにしているし、「誤答することを恥ずかしいと思うこと」を克服している。
だから本庄絆に対して幻想を抱いた、という「誤答」もすぐに忘れて切り替える。
大昔に、クイズに強くなるために「恥ずかしい」という感情を捨てたときみたいに、綺麗さっぱり忘れ去った。(略)
彼はもう、僕の中で存在しない。
(引用元:「君のクイズ」小川哲 朝日新聞出版/太字は引用者)
この話は「三島が本庄絆に勝手に幻想を抱いてその幻想を裏切られたが、そのことをすぐに忘れる話」だ。
つまり三島と本庄の関わりは、作内世界に何ひとつ影響を与えない。
この話は「三島の本庄に対するこだわり」がすべてだから、字義通りの意味として「何の意味もない」のだ。
恐ろしくシニカルな話だ。
「本庄と三島の関係がお互いに何ひとつ作用しない徹底ぶり」は、インタビューで作者の小川哲が答えていた、他人に作用することに興味を示さず、他人からの作用を遠ざける考えに通じるものがある。
結果がついてくるかはあまり気にしない。自分に決められることではないからだ。(略)
自分が考えることを伝えることはできるけれど、他人の考えや信念を変えることはできないかもしれない。それは仕方がないことだ。(略)
本が売れればもちろん嬉しいけれど、売れなかったとしても仕方ない。読者がどんな本を求めていて、どんな本を買うかは僕が決めることではない。
(引用元:「直木賞が決まって」小川哲 読売新聞2023年1月24日(火)19面/太字は引用者)
それでも二人は「クイズの世界」でつながっている。
だが「本庄絆のことは綺麗さっぱり忘れた」三島は、まったく変わらなかったわけではない。前より少しだけ強くなったような気がし、前より少しだけクイズのことが好きになって嫌いになる。
本来は本庄のための問題である「Under tale」を、桐崎さんと付き合ったために三島が答えた。
本庄絆は動画ビジネスのために知名度とインパクトが欲しかっただけ、三島はそんな本庄に嫌悪を感じ綺麗さっぱり忘れることにした。それはそうなのだろう。現実の世界では。
でも彼らは本人たちの意思とは関係なく、クイズの世界で結びついている。
だから三島は前より少しだけ強くなれて、クイズのことが好きなって嫌いになったのだ。
自分の思いこみで時に苦い思いをしながらも、それもまた次のクイズを答える糧になる。
確かにクイズとは人生かもしれない。
皮肉たっぷりだけどいい話だった。
*1:昔は比較しようがないので、まあ人生とはこんなものなんだろうくらいの感覚だった。