*本記事には「サマータイムレンダ」及び「君が獣になる前に」のネタバレが含まれます。
客観が主観を凌駕するとは限らんぜ。事実が妄想を吹き消すとは限らんぜ。
(引用元:「騎士団長殺し 第一部 顕れるイデア編(上)」村上春樹 新潮社 P256/太字は引用者)
今さらながら「サマータイムレンダ」全13巻を読んだ。(5巻まで読んで止まっていた)
やり尽くされている感のある「ループもの」というジャンルの中でも、これは頭ひとつ抜けている。
「成功するまで何回も同じことをトライする」のではなく、作内の登場人物が「ループも込みで戦略を立てている」、そのことによって一見チート臭い「ループできる能力」が、登場人物の一特性に過ぎなくなる。
ただ単に「トライ&エラー」で少しずつ話が進んでいくものよりも、「ループはひとつの要素に過ぎず、それを組み込んだ話の面白さ」を追求しているもののほうが好きだし、面白いと感じる。
この点は「はっぴぃヱンド」(ネタバレ反転)も同じだが、「サマータイムレンダ」のほうが設定も緻密だし、登場人物も魅力があって面白かった。
「サマータイムレンダ」の前に読んだ「君が獣になる前に」もループものだった。
比べるのは申し訳ないが、設定の作り込みにかなり差がある。
「サマータイムレンダ」は、アクションシーンも凄くよかった。特にハンマーを振り回す竜之介inひづるの戦いぶりには興奮した。読んでいて楽しい。
あらゆる点で「サマータイムレンダ」に軍配が上がる。
と、俯瞰した(慎ちゃん風)自分は言うのだが、その声があってもなお自分は「君が獣になる前に」のほうが好きだ。
「サマータイムレンダ」は、感想を書こうとすると「面白かった」以上のことが書けない。「面白さ」以上に自分の心にリンクするものがない。(それで十分だと思うが)
自分が「君が獣になる前に」に見出している面白さは、主人公・神崎の人物像に尽きる。
あの話は、主人公の神崎が自らの内部に押さえつけている獣によって支配されている世界なのだ。
無差別テロを起こすヒロイン琴音を初め、周りの登場人物もひと癖もふた癖もある人物に見える。
が、自分から見ると違う。
どれほど作内で「琴音の目の力が」が言われようと、それが本題とは思えない。むしろ本題から話を逸らそうとする後付けの設定にしか読めない。
自分から見ると神崎以外の登場人物は、紙ペラのようにしか見えない。
神崎は普段は自分の中の獣を抑えつけることに全力を使っている。そこでエネルギーを使い果たしているから、他人からは無気力で人生に何も期待していないように見える。宮ノ森が言うように「いつ死んでもいい」ように見える。
作内で神崎は琴音を殺してでも止めると言い、琴音を止めるために拘束した玄奘を殴りつけたり、玄奘の妹と姪の家に侵入して脅迫の道具に使う。
神崎はつい先日まで、ごく平凡な一般市民として暮らしていた人間だ。
いくら無差別テロを食い止めるためとはいえ、その急激な変貌ぶりに驚く。
と思いきや、その展開にほとんど不自然さを感じない。
神崎は変わっていない。妹親子を使って玄奘を脅したように、神崎は自分の内部で手段を選ばずに獣を抑え続けて生きてきたのだ。
「君が獣になる前に」は、神崎がずっと続けていた、自己の内部に棲みついている獣との戦いが可視化された話だ。
作内の琴音は、神崎の内部の獣が具現化したものだ。
だから神崎は終始一貫して、この獣をどんな手を使ってでも止めなくてはならないと考えている。
自分でも、なぜこの話がそう見えるのか、なぜ神崎という人間に、この構図にこんなに惹かれるのかがよくわからない。
慎ちゃん並みに俯瞰して考えれば、この話はそんな作りはしていない。
でも自分にはそう見えるし、「どうあっても琴音という獣を止めなければならない、琴音を殺してでも」という神崎の切迫感が乗り移ってくるような気すらする。
「サマータイムレンダ」を読んでいても、「このあとの展開はどうなるんだろう?」とは思っても、「どうあってもハイネとシデを止めなければならない」という感覚にはならない。
そういう自分にとってリンクしやすい創作、キャラがたまにある。
神崎を好きか嫌いかを考えるのは難しい。
自分にとっては「主観が客観を凌駕する」客観視しづらいキャラだ。
何でなんだろう。