鈴木亮平主演で映画化された「エゴイスト」の原作を読んだ。(映画は未視聴)
鈴木亮平の寄稿文によると、作者にRと呼ばれる恋人がいたこととその母親と交流があったことは事実らしいが、「小説」と銘を打っているので「小説として」読んだ感想を書きたい。
「エゴイスト」は恋愛小説ではない。罪を犯した*1主人公による懺悔と赦しの物語である。
*以下ネタバレを含むので、未読のかたは注意。
恋愛小説のはずなのに、という妙な違和感。
主人公の浩輔は友人の紹介で出会ったパーソナルトレーナーの龍太に惹かれる。初めて会った時から強く惹かれて、龍太から別れを告げられた後も、追いかけて生活の困窮から売春をしている龍太に、月々の援助を申し出る。
ここまで読んだときは、龍太は愛情がありつつも浩輔を利用する関係になり、「愛だけでも利己的な気持ちだけでもない」という退屈な恋愛話になるのかなと思っていた。
浩輔の人物像がいいだけに、失望が大きかった。
まあでもせっかく買ったんだし、と思い読み進めて行くうちに妙な違和感を覚えた。
恋愛に話がフォーカスされている感じがない。
浩輔は龍太ではなく、明らかに龍太の向こう側にいる母親に干渉したがっている。
浩輔が龍太と恋人になった理由。
そう考えた時に、浩輔が龍太に惹かれた理由を述べた箇所を思い出した。
龍太は、僕が読んでいる途中で取り上げられてしまった本の続きを持っている男だった。(略)
龍太が持っている物語が、自分のものであるはずがないことくらいはわかっている。けれども龍太の物語に関われたら、僕は僕の物語を紡いでいくことができるかもしれない。
たったそれだけのために、僕は、会って二週間も経っていない、赤の他人を使おうとしているのだ。卑しいにもほどがある。でも、もう止められない。
体の相性などものの数には入らない。あの男を絶対に手放さない。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
自分が龍太に関わろうとしているのは「龍太の物語が必要であり」「それだけのためで」「(龍太を)使おうとしている」と、本人がはっきり言っている。
こう書かれていた場合、普通は恋愛感情の比喩であり、相手に惹かれた理由をあえてシニカルに表現していると思う。
しかしこの話は違う。このままの意味である。
浩輔は「我が身を犠牲にして病弱な母親に献身する息子」という属性を持つ龍太の物語を乗っ取ろうとしたのだ。
浩輔にとって、自分が途中で取り上げられた物語取り戻し読むことが、生きるためにどうしても必要だからだ。
浩輔は龍太が死ぬかもしれないことに薄々気付いていた。
浩輔が龍太に売春を止めさせるために援助を申し出たのは、龍太に対する愛情からでも独占欲からでもない。売春を止めれば、龍太はもっと長い時間体を酷使して、肉体的にキツイ仕事をしなければならなくなることをわかっていたからだ。
少なくとも浩輔は、龍太がそういう状態にいても助けたり止めたりしない。龍太が疲弊して弱っていく様子をただ見ている。
昼も夜も入れられるだけ仕事をして、残りの時間で会う龍太が、いつしかそのほとんどを寝て過ごすようになったことに驚きはなかった。(略)
そういう生活を選んだのは龍太だが、そういう生活を選ばせたのは僕で、だから僕は、むさぼるように眠り、目覚めたあとで決まって何度も謝る龍太に、怒りよりはむしろすまない気持ちを抱いていた。
僕たちは恋人というより共犯者のようだった。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
この文章は「性行為の最中に恋人が眠ってしまうことに怒るゲイの友人」と比較して語られるため、一見すると「龍太を見守ることが浩輔の愛情」だと読める。
しかしこれも字義通りの意味である。
浩輔は意識的に、龍太を恋人と会っている最中も眠ってしまうような過酷な生活を「選ばせている」。
浩輔はこの果てに、何が待っているのか薄々気付いていたと思う。気付いていたから実際にそうなったときに、強烈な罪悪感を抱いたのだ。
浩輔は龍太が死んだとき、恋愛というレイヤーで見ると不自然なほど強烈な罪悪感を抱き、数ページに渡って謝罪を繰り返している。
「ジョバンニの部屋」の一説になぞらえて、「自分が龍太を断頭台のかげにおいた」とまで言っている。
龍太の母親は(略)息子の仕事相手が、裏では恋人面して自分たちの人生を破壊し尽くしたなんて、思いもしないだろう。(略)
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」(略)
「どうして謝るの? どうしてあなたが謝らなくちゃいけないの?」
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
「龍太を愛するがゆえの行動が、結局龍太を死に追いやったのではないか」
そう思っただけならば、龍太を失った喪失感がほとんど語られず、ひたすら罪悪感だけに囚われるのは不思議だ。
龍太を失った痛みよりも、自分が龍太の人生を破壊し尽くしたという自責が強烈なのは、浩輔が「そうなるかもしれない」と思っていたからだ。
浩輔にとって龍太は「母のために犠牲になる自分」だった。
浩輔は、なぜここまで赤の他人である龍太の人生を「破壊し尽くす」まで「使えた」のか。
浩輔にとって龍太は「もう一人の自分」だからだ。
僕も母にそう思われるのがは何より悲しかった。
お互いにそう思っていたことがわかったとき、僕、龍太のことは恋人というより、双子の弟のような感じがしました。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
「我が身を犠牲にして病弱な母親に献身する息子」という物語を持つために、浩輔は龍太に「自分との同一性を見出した」のだ。
母が僕を見つけてくれたとき、しゃがみこんで泣いてしまった。(略)
母が病気になってから、僕は一度も、そんなふうには泣けなくなってしまった。
龍太、知っているよ。お前がずっと我慢してきたこと、知っている。だって、僕もそうだったから……。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
浩輔と龍太は「病弱な母を助ける物語」においては、同一人物である。少なくとも浩輔の中の「物語」ではそうなっている。
その物語おいては、どれほど辛くとも苦しくとも母を助けるために限界まで頑張らなければならない。
そんなこと言うな、もう絶対に言うな。
俺も嫌いだったら別れている。お前だって俺のことが嫌いだったら別れてもいい。
でも、そうじゃない。そうじゃないだろう。(略)
お互いにいまだに大事に思ってて、しょうがいなから、やっていくしかないだろう。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
父親が病気の母親を八年間支えたこの精神で、浩輔も「母」を支えたいと願っている。
無力な子供の時には出来なかったこの物語を、「龍太」という自己を通してやろうとしたのだ。龍太に対して「頑張れ」ではなく、「頑張ろう」と言うのはそのためだ。
浩輔が望んだのは、「自分が犠牲になり母を救う物語」だった。「犠牲になってもいい」ではなく、「犠牲になりたい」と願っていた。
だからこのままいけば龍太がどうなるかわかっていても、止めなかったのだ。龍太は浩輔の物語において「母親を救うために死ぬ自分」なのだ。
「母」に対する二重の罪。
「死」という犠牲を払うことで、浩輔は初めて母から欲しかった言葉をもらう。
「だって私、知っているから。あなたが龍太のこと愛してくれていたこと、私、知っているから」
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館)
浩輔が母親から求めていた言葉は、「自分が同性愛者であることへの赦し*2」である。
母が死んで登校したあの教室で、手に入らない幸せをいつまでも夢に見るより、手に入りそうなほかの幸せをつかむために走ろうと誓った。(略)
手に入れたものは確かに僕にとって大切なものばかりだったのに、母の墓や仏壇の前ではずっと謝り続けてきた。
龍太との付き合いを、母は決して心から喜んでいないだろうと思っていた。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
浩輔は自分が同性愛者であることに、特に引け目は感じていない。仕事も成功し友人もいる現在の環境に満足し、かつて自分を傷つけ母親を侮辱したクラスメイトに、惨めな思いをさせられるようになったことに満足している。
だが死んだ母親に対してだけは別だった。自分が同性愛者であることに、罪悪感を抱いてしまう。
それは母親が生前何度も、「こうちゃんが大人になってお嫁さんをもらうまで、お母さんは元気でいないとねえ」と言っていたためだ。
「お嫁さんをもらう」は、母親の中では「息子が大人になった姿」の象徴に過ぎない。
「余命二年」と告げられた状態で「息子が大人になるまで生きたい」と願い、「生きよう」と必死に自分を励ますための言葉なのだ。
もし母親が生きていれば、自分が同性愛者であることを打ち明けてもただ自分の幸せだけを願ってくれるだろうこと、母親の性格からしてそうであることは浩輔もわかっている。頭では。
だが母親が死んでしまったことで、それを確認する機会が失われてしまった。
だから、死んだ母親を救えなかった、そして死んだ母親が願う人生を歩めないという二重の罪悪感に、母の仏壇の前で謝罪の言葉しか出てこないほど苦しむ。
その苦しみのために「自分を犠牲にして母を救う物語」を、他人の人生を乗っ取ってでも必要としたのだ。
そして龍太(≒自分)の命を犠牲にした時に、ようやく「母」から欲しかった言葉を得られた。
「母」からそんなふうに言ってもらえる日が来るなんて、想像もしたことがなかった。想像してはいけないと思っていた。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
「エゴイスト」で最も重要なのは、浩輔がこのシーンで感じた「『あなたが同性愛者であることを知っている』と母から言ってもらえた」という感動である。
だからわざわざ両方の行間を空けて強調されているのだ。
「エゴイスト」というタイトルの意味。
そのことを証明するように、このあと「母と息子」の物語が展開する。
浩輔と龍太の母は、最後に本当に「親子」になる。血のつながりなどの全ての現実的な理を越えて、主観的な物語世界では二人は「母と息子」なのだ。
帰らないよ、まだいる。
だって僕と母さんの新しい関係、いま始まったばかりじゃない。
(引用元:「エゴイスト」高山真 小学館/太字は引用者)
浩輔の視点では、母に「罪」を許され和解したのだ。(「母」目線で見れば元々、息子のどんな部分も愛して受け入れているのだが)
浩輔は「母を救えなかった」「お嫁さんをもらえない」という、母に対する二重の罪を償い許しの言葉を得るために、龍太を半ば意識的に死に追いやり*3「母親を救う物語」を奪い取った。
「恋愛小説」という外形自体が叙述トリックになっているサスペンス小説、ノワール小説なのだ。
自分は「エゴイスト」はそういう話だと思うし、タイトルを見るとそういう話であることに相当自覚的な小説ではないかと思う。
まとめ:「エゴイスト」の魅力は、主人公・浩輔の人物像にある。
自分が最初に違和感を持ったのは、導入部分で示される浩輔という人物像にそのあとの龍太との恋愛がそぐわないところだ。
浩輔は自分が必要だと思ったものは手に入れる、過去に受けた傷はきっちり清算する、人から見た是非には関心はなく、自分の人生を自分の手でデザインする強固な意思と自立心を持っている。
こんな人間が、他人の身の上話に同情しただけで恋に落ちてしまう、そして自分の生活が苦しくなるほどの額の援助*4まで申し出る、そんなことがあるだろうか。しかも浩輔に比べると、龍太は心優しく善良ではあるが、さほど魅力を感じる人物ではない。
一体、なぜ浩輔がこれほど龍太に入れ込むのか、こんなありきたりな話にハマってしまうのかと思っていたが、浩輔はまさに物語の初めに描かれたような人物だった。
浩輔のような人物だったら、自分のしたことを、そうせざるえなかった自分を「エゴイスト」と評するだろう。
自分でも強烈な罪悪感を抱えることになるとわかっていても「でも、もう止められない」と思いおこなってしまう。
是非はおいておいて、自分の人生にどうしても必要だと思ったことは、それが「罪」だと感じることであってもやり遂げる浩輔という人物が魅力的な小説だった。
続き。