うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【漫画感想】「水溜まりに浮かぶ島」全5巻が、打ち切り臭い終わり方でも面白いと思った理由。

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*ネタバレが含まれます。未読のかたはご注意下さい。

巷で言われているように打ち切り臭い、もしくは飽きて終わらせたのかと疑うような終わり方だったが面白かった。

 

湊と黒松は何のために、何によって入れ替わったのか?

「水溜まりに浮かぶ島」は、湊と黒松が入れ替わることによって二人の運命が交差して話が進む。

しかし、作中で

・二人は何が原因で入れ替わったのか?(原因)

・二人は何のために入れ替わったのか?(目的)

は明らかにされない。

 

作内だけならまだわかるが、「水溜まりに浮かぶ島」は、作外視点でみても二人の「入れ替わり」が機能していない。

普通は「入れ替わりのような事象」は、物語の中で二人が自分たちが持っている課題なり目的なりを解決するために機能する。しかし「水溜まりに浮かぶ島」ではまったく機能していない。

黒松の目的は楠を出し抜くことであり、そのためならば楠を殺すことにも躊躇いがない。

物語の終盤に判明した「母親が楠によって殺されたために、復讐したい気持ちになったこと」は、黒松の目的を補強はしても変更はしない。

黒松は最初から、自分が生き延びるためなら楠を殺すことを視野に入れていた。

入れ替わり相手である湊には、目的すらない。ただ「入れ替わり」という事象に巻き込まれ、その状況に対応しているただけだ。

湊は元々正義感が強く妹思いの心優しい少年なので「成長」という要素もない。

二人がなぜ入れ替わったのかもわからないし、入れかわったことによって二人が変化することもない。

双葉と渚は終盤で二人が入れ替わったことを知るが、二人ともほぼ迷いなく湊は湊、黒松は黒松として扱っているため、「入れ替わったこと」が機能しない。

作外視点で見れば物語の因果にも登場人物たちにもほぼ機能していない、作中ではその理由がまったく語られない。一体湊と黒松は何のために入れ替わったのか?

この話の面白さは、この疑問にある。

 

湊と黒松は同一性を補強するために入れ替わった。

なぜ、作内で「湊と黒松の入れ替わり」がここまで機能せず理由も明かされないかというと、「二人が入れ替わったこと」はさほど重要なことではないからだ。

「水溜まりに浮かぶ島」で最も重要なことは、「二人が同一人物である可能性があった」ことであり、入れ替わりは二人に同一性があることを示す一要素に過ぎない

もっと明確な言い方をすれば、二人は話の深層では同一人物(であることも可能)なので「入れ替わり」ということ自体がありえないのだ。

うみねこの鳴く頃に」(ネタバレ反転)の紗音と嘉音の関係に近い。

この話のストーリーは事象の因果ではなく、「二人が同一人物であった可能性」に基づいて生成されている。

「同一人物であった可能性」があるから、作内で特に理由なく(因果を無視して)入れ替われるのだ。(紗音と嘉音がそうであったように)

作内で湊と黒松が同じ夢を見るが、この二人は入れ替わる前から同じ夢を見ている。つまり入れ替わったから体の記憶に基づいて(という理由で)二人は同じ夢を見るのではない。

元々、二人には同一人物である(可能性がある)。その可能性を示唆する要素として、二人は入れ替わったり同じ夢を見るのだ。

 

「湊と黒松は同一人物である(可能性がある)ために同一性を追求できる」というのが、この話の最も強力なルール。

「水溜まりに浮かぶ島」のストーリーは、「湊と黒松が同一性を持つ存在であるがゆえにお互いに可能性を補完し合っている」というルールに基づいて作られている。

全ての法則を越えて、作内で特に理由も説明されず二人が入れ替わるのはこのルールがあるためだ。

そして物語を構成するルールを補強するために、「育児放棄を受けていた」「ルミに渚の面影を見る」「二人とも親を楠に殺されている」などの同一性が作内で次々と出てくる。

 

ルミは渚の面影を宿すこと示されつつも、そのことに何の意味もなく、黒松とも特に関係がないままフェードアウトする。

一般的な物語で考えれば、一体何のために出てきたのだろうと疑問に思う。

しかしこの話の作内の物事は、通常の物語のように因果ではなく、「二人の同一性を強固にする」という目的のためにのみ連想ゲームのようにつながる。

そのため、

黒松がたまたま偽造に利用した住所にたまたま住んでいた女性が渚の面影を宿しており、それを黒松の中に入った湊が感じ取り、困っていたときに助けられる。

という偶然が大きな意味を持つ。*1

「ルミ」という存在の意味は、物語の中でストーリーの因果に関わることや黒松などの登場人物に関係があることではない。

「渚」の代替として「湊=黒松を気にかけること」にある。

物語の最後で、黒松が渚について「お袋以外で……ただひとり俺を気にして」というのは、広義ではこの時のルミの湊への対応も含まれる。

だから男がルミに暴力を振るった時に、「黒松」が出てくるのだ。

(引用元:「水溜まりに浮かぶ島」2巻 三部けい 講談社)

この話は因果によってストーリーが推進するのではなく、湊と黒松の同一性(同一人物である可能性)によって推進する。だからルミもストーリーの因果ではなく、「黒松と湊の同一性」を補強することに作用する。

 

「湊と黒松が同一人物であったかもしれない可能性」によって、この話は何を描きたかったのか?

「水溜まりに浮かぶ島」は、黒松が湊であった可能性、湊が黒松であった可能性を描いた話だ。極端なことを言えばそれ以外の描写はすべて枝葉である。

「黒松は渚がいない湊であり、湊は渚がいる黒松」なのだ。

もっと言うと湊は生まれ変わった黒松で、時系列が畳まれているのではないかと思っている。

なぜそう思うかというと、物語の最後に黒松が「渚だけが自分を気にしてくれた」と言ったからだ。

作内で渚は、湊と入れ替わった黒松をむしろ嫌っている。黒松が作ったてるてる坊主を持っていたとはいえ、「気にしている」様子はまったくない。渚が気にしているのは、湊だけだ。

また双葉は、湊の中身が黒松だとわかった後も「放っておけない」と言っている。湊の中にいた黒松のことは、渚よりも双葉のほうが「気にして」いる。

にも関わらず、黒松は「お袋以外で自分を気にしてくれたのは唯一渚だけ」と考える。

これは「生まれ変わった後」の、黒松の中にいた湊の状況を含んでいるのだ。そして湊が黒松の中にいたことを見破れたのは渚だけだった。(双葉は疑って警察に通報している)

 

全ての枝葉を取り払った時、この話の本当の姿は「殺人鬼・黒松が渚の存在によって救われる話」だ。

それをストーリーに色々な枝葉を入れたり、「救済後の姿」を入れ込んだりして捻りを加えた上に、わかりにくい角度から見せている。

なぜそんなことをしているのか。

「女子供も含めて自分にとって邪魔だと思ったら、秒で裏切ったり殺す冷血な殺人鬼が、誰かに気にかけてもらうことで改心して救われる」

というストーリーはそのまま見せると余りにベタすぎる。また黒松のキャラ造形だと「救われること」に読み手が納得できないからではないか。

黒松は物語の序盤で、利用されたに過ぎないシングルマザーの六月を、あっさり殺している。また双葉も渚も利用する対象として見ておらず、いざとなれば殺すと何度も言っている。

普通に考えれば死んで生まれ変わるくらいしか、改心の方法はない。

そのために「救済前」と「救済後」を同時に見せる造りになったのではないか。

 

まとめ:作品としてうまくいっているかと言われると厳しいが、造りが面白い。

「一般的な(作内の因果でストーリーが生成されているはずと考える)読み方をした時に面白いか」と聞かれれば、「細かいことを気にしなければつまらなくはない」という答えになる。

人によっては「導入は面白かったのに期待はずれだった」と思うかもしれない。

ただ「因果によらないルールによって、ストーリーを作れるか」という試みだと考えると凄く面白かった。

個人的にはこの発想でもう少し練ったものが見たかったなと思ったけれど、考えて作れるものでもないと思うので「こういうものを読めた」というだけで満足だ。

 

*ストーリーを構成する際に因果ではなく別のシステムを持ってくる、という話は「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?」で語られている。

クリスティーの「アクロイド殺し」は、有名な例のトリックのために作内の事象が事実であるという担保を作中描写だけでは保障できないため、双数のシステムによって保障しているという説。

面白いので↑のような話が好きな人はぜひ。

*1:この話は因果ではなく偶然が大きな意味を持つ。