前巻の感想。
戦前からの左翼の歴史を振り返った「1945-1960」に続いて、「激動 日本の左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」を読み終えた。
学生運動が一番盛り上がり衰退していった時代の話だが、有名な事件や事柄の周辺事情やつながりも書かれていて面白かった。
本書の最後で「なぜ『世の中を良くしよう』と多くの学生が参加した運動が、最終的に過激で凄惨なものになってしまったか」を話している。
佐藤:(略)ナショナリズムにおいては、「より過激なほうがより正しいことになる」という原則があります。(略)
固まった空間の中で限られた人間だけで活動をしていると、どうしてもそうなるんです。革命運動もそれと同じで、より過激なほうがより正しいということになってしまうから当然先鋭化するんです。
池上:そうですね。閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝つに決まっている。
佐藤:(略)議論の過程で各派が功名心や自己顕示欲に駆られ、いつの間にか過激な提案の応酬になってしまうということはごくありがちなことだったのでしょう。
(略)どれだけ過激なことができるかを競う合うようになれば、どうしたってとる手段は荒唐無稽になります。(略)
それに加えて権力というのはもともとあまりに大きすぎる敵で全体像が見えにくい(後略)
(引用元:「激動 日本の左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」池上彰/佐藤優 講談社 P260-P261/太字は引用者)
①その『場』に同じ方向性の人間ばかりが集まり、
②同じ方向性のみを指すことで閉鎖的になる。
③指す方向に具体性がなく概念的である。(具体的な人であってもその場の中では概念化している)
④そうすると一定の方向性の主張の過激さを競うようになる。(目的に具体性がないので、達成度は競えない)
⑤方向性が一定の方向しかないまま極度に先鋭化すると、言動の過激さをそのまま実際の行動に移すようになる。
内部の人間の資質*1はほぼ関係なく、「同質化したために閉鎖された場」はこういう風に動くようになっている。
例示が新左翼の過激な集団なので類似の「場」としてカルトなどを思い浮かべやすいが、日常でもこういうことは多々ある。
ネットの過激なコミュニティもそうだし、悪ふざけ動画を上げる高校生もそうだ。
「自分が所属するコミュニティの価値観に沿う過激さを競い、その忠誠心と引き換えに承認を得る」
もう少しライトな言い方をすると、「そのコミュニティで受けること」を最大の目的とした言動を取るようになる。
連合赤軍事件の当事者である永田洋子や坂口弘が書いた本を読むと、山岳ベースでは「『その場で受けること』を最大の目的とした言動」を誰もが取っている。そしてそれを相対化する視点がなくなっている。
「自分が標的になることが恐ろしいから従ってしまった」ということ以前に、「総括」自体は「必要なこと」「正しいこと」だとその場にいた大半のメンバーが信じていた。
「場の外」にいる本の読み手からすると異常な話だ。だが読んでいると、中にいたら自分も逆らうことは難しいだろうと感じさせられる。
「対象を概念化してしまうネット」は「思考が閉じ込められる危険性」が高い。
「エコーチェンバー」が問題になったり、端から見ると「え?」と思う言動を目撃することもある。
今の時代でも、というより、対象を概念として見ることが多い今の時代だからこそ学べることがあると思う。
①興味のあることは、なるべく色々な意見を先入観を持たずに目を通すようにする。
②わからないことは調べるか、調べられないなら触れない。
③「他人に受ける言動」という軸ではなく「自分が考えたこと」を話す。(党派性で物事を判断しない)
④注目狙いに見える過激な言動はスルーする。→注目狙いの言説には承認を与えないことが、言動が過激化していく場に加担しないことになる。
この辺りを気をつけているが、それでも「危うい」と思うこともある。
「何の場にも属さない」「自分自身が誰かにとっての場にならない」ことは、社会で生きている限りは不可能だ。
なるべく色々な場に属して様々な意見に目を通して、ひとつの方向性の鋭さを競って過激化していくことにはならないようにしたい。
そう気を付けることが「誰かを過激化させる『場』を形成する一部にならないこと」につながると思うのだ。
*1:そこに巻き込まれるか否かは集団の方向性や個人が置かれた状況に左右されるだけで、『確実に巻き込まれない人』というのは存在しないのではと思う。