うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【小説感想】実際の事件を基にして発刊中止になった「パルチザン伝説」 これを「個人的な物語」と読めないところに分かり合えなさを感じる。

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文藝賞の最終候補になり単行本化が決まっていたが、抗議によって急遽発売中止になったいわくつきの作品。

パルチザン伝説

パルチザン伝説

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東アジア反日武装戦線が起こした事件をモデルにしているため、抗議を受けて発売が困難になったらしい。自分は「虹作戦」よりも「三菱重工爆破事件」を「M事件」としてそのまま用いていることが気になった。

創作の表現は自由で守られるべきだと思うけれど、実際のどの事件をモデルにしているかはっきりとわかる、しかもその事件を否定せずに描かれていると創作としての評価云々以前に忌避感がわく。三菱重工爆破事件は亡くなっている人もいるし。

それ以外も終戦間際に内乱を起こす(天〇暗殺を目論む)ことで日本社会を変革しようとする、死人が出ても日本の民衆は戦争を支持したという罪があるから仕方ないとするなど、引っかかる描写が多い。

反体制の活動をしていた人間がどういう心境を持っていたかということを、現代の価値観で相対化しないで書いた話なので、そういうものだと割り切らないと読み進めるのが難しい。

 

「パルチザン伝説」の面白さは

①現代では理解しにくい、この時代の活動家たちがどういう思想を持ち、どういう心境だったかが描かれている。

②独特な文体が良い。

③戦後の反体制的な活動を「戦前から続く『父の体系』を破壊する試み」として描くことで、活動の個人的な側面が押し出されている。

自分はこの三点だと感じた。

 

この本を読んで、当時、新左翼などの反体制的な活動に携わっていた人間の心境がわからないのは思想や言動が過激だからではない、と感じた。

自分が主人公たちの言動に見出した意味は、③の読みかたのようなどこまでも個人的なものだ。

ところが巻末の解説を読むと、解説者も文藝賞の選者たちもそういう読み方はしていない。主人公たちの言動に「社会的な意味」を見出して、それを批判なり評価なりをしている。

大道寺将司は獄中から、『パルチザン伝説』評の求めに対して、「全共闘運動を敗北と総括し、反日革命の展望を見出せない」という「結論を急がれても困る」と不満を述べていた。(前掲「『パルチザン伝説』出版弾圧事件)

大道寺の洞察は的を射ている。

(引用元:「パルチザン伝説」桐山襲/解説・友常勉 河出書房出版社 P168/太字は引用者)

 

自分が所属した組織を明らかにモデルにした話だから(だから評を求められたのだろうし)、大道寺将司の感想がこういう返答になるのはわかる。

わかるんだが、「お話」としてではなく「自分たちの活動に対する何らかの結論(意見)」としてのみとらえて感想を言うなら、それは「本の感想」ではないのではないか。

 

自分は「パルチザン伝説」はその背景に関わらず、とても個人的な物語だと思う。

だがこの年代の人たちは(作者も含めて)、「あの時代に起きた出来事の個人的な意味合いのみを語る」のは難しいのかもしれない。

「個人的なことが運動のモチベーションだったのではないか」と指摘したのではない、

結局「社会が変わる」という場所に行き着かなかったんだから、当事者は「個人的な意味合い(物語)」として総括するしかないのでは?ということだ。

 

「パルチザン伝説」の面白さは、「社会を破壊しようとしている人間の中には『社会』が存在しないのだから*1、いくら物語を社会的(歴史的)なもので覆おうとしても個人的なものになってしまう」ことがもろに出ているところだ。

だから「『全共闘運動を敗北と総括し、反日革命の展望を見出せない』という結論を急がれても困る」という「社会的な話として読んだ感想」を言われると、「ちゃんと作品を読んだのだろうか、それとも読んだけどスルーしているのだろうか」と思ってしまう。

 

文藝賞の選評で江藤淳や島野敏雄、野間宏が「作者の戦時中の理解の仕方に疑問を表明している」(P157)と書かれていたが、自分も「パルチザン伝説」の戦争の認識のしかた、描き方は独特に感じた。

主人公の父親が生きた戦時中の描写は、他の戦時中のことを描いた作品に比べて生活感がない。Sが見た夢の世界か、現実とはまったく関係ない異世界の話みたいだ。

戦時中の話なのに「戦争」が凄く遠い。原爆が出てきても、「突然起きた超常現象」のようで「歴史において実際に落とされた原爆」と頭の中で結びつかない。

歴史を描いているのに、蜃気楼の中にいるような感じだ。

このぼんやりとした戦争(現実)への認識が、作内の「社会」であり、それを集約するものとして唯一、主人公や主人公の父が殺すべき対象として認識できるのが「天〇(制)=父」なんじゃないか。

この話が一から十まで個人的な話だと感じるのはそのためだ。

 

「パルチザン伝説」は、「どこまでいっても父を殺せない話」だ。

なぜ殺せないのかと言えば「父を認識できないから」だ。しかし認識したらしたで殺せない。なのでどこまでいっても父を殺すことは出来ない。

「父を殺すという可能性」の一点のみで社会と接続していたのだから、父を殺せないとわかれば喋れなくなったり、「ユタ」という新しい父親だけが存在する場所にいくしかなくなる。

「結局ユタという新しい制度(父)に回収されて終わるのか」という感想に対しては、「社会とつながるために『父を殺すという目標』が必要だっただけであって、本当に殺したかったわけではないから仕方ないのでは」と思う。

前述した通り、結局社会は変わらなかったのだから、そう総括する視点も必要だと思う

だから解説や文藝賞の選者たちの語る「社会的な事象のライン」で語る感想に違和感を覚える。

 

「パルチザン伝説」は、「唯一認識出来る対象である『父』への拘泥でのみ社会につながる男たちが、父を殺すことで社会に接続しようとして失敗した物語」だと思う。

面白かったので、著者の他の作品も読んでみたい。

 

続き。

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*1:内部に存在しないから、外部の社会を破壊することで、内外の整合性を取ろうとしているのでは。