既に映画化されていることも知らず表紙買い。
江戸川乱歩に代表される、退廃的で耽美で残酷描写があるインモラルな世界観だ。「グランギニョール」というジャンルがあるのを初めて知った。
残酷描写にそこまで興味がないし好きでもないのだが、これは凄い良かった。
常川、それはある共同体においてはそう規定される。
しかし僕の血は常川か? No。
僕の肉は常川か? No。
常川とは曖昧で実体がない。
この光クラブにおいて、我はゼラと規定される。
(引用元:「ライチ☆光クラブ」 古屋兎丸 太田出版/太字は引用者)
自分は、子供の世界を「大人の世界とはまったく別のルールで形成されている異種の共同体である」という前提で描いて、その中で起こる物事に焦点を当てた話に強く惹かれる傾向がある。
「共同体」は「明示されている、もしくは暗黙の様々なルールを共有することによって」形成される。
常川は常川ではなく「ゼラである」という認識を共有することによって、「光クラブ」という共同体は形成されている。
それが子供のお遊びだ、というのは簡単だ。
だがなぜ、子供のお遊びが強固な世界観を作れるほど機能してしまうのか。
それは大人が子供に干渉する力を持ってなくて、子供たちが社会から隔絶しているからだ。
子供たちだけが無人島に漂着する「蠅の王」のような話では大人は子供に物理的に干渉できないが、「ライチ☆光クラブ」においては違う。
(引用元:「ライチ☆光クラブ」 古屋兎丸 太田出版)
「光クラブ」の少年たちが住んでいる蛍光町は、24時間動き続ける工場を中心とする町だ。大人たちのほとんどがこの工場の関連した仕事についている。
工場が吐き出す黒い煙で、町から見える空は黒い。海は「こんな汚い海を海って言ったら、他の海が可哀想」なほど汚い。他の地域の住民からは、「あの工場の町の子供」と蔑まれている。
ほとんどの家庭は貧しく、大人たちは生活の苦しさを嘆くか無気力か、子供たちに当たり散らしている。当然そんな状態なので、子供たちにほとんど関心がない。
子供たちと同様、大人もこの世界に支配され閉じ込められたまま、無力な状態に置かれている。
それが「ゼラが常川である世界」だ。
子供たちはそんな大人に、社会に、何かを考える以前に失望している。自分たちも将来、この世界に取り込まれ、こうならざるえないことに絶望している。
「成長は悪ではないが、大人になることは悪」なのは、「大人」とは工場に支配され、その支配を受け入れるほど無気力であり、それでいながら何かあれば子供に当たり散らす存在だからだ。
ゼラの思考は子供じみているし、光クラブのやっていることは社会では許されない。
だがゼラを初め光クラブがそうなったのは、歯止めとなるべき「大人の社会」が余りに無力で正しくないからだ。
あいつは人間の形をしているけれど、人間じゃない。
悪魔? いや違う。
人形、いや、あの目は心が入っていないマシンだ。
(引用元:「ぼくらの☆光クラブ」 古屋兎丸 太田出版)
ゼラやジャイボが行う残酷な行為は、社会にとってわかりやすく咎められるべきものだ。田宮の視点では、ゼラの残酷さの理由がわからず恐怖と嫌悪しか語られない。
だが一方で彼らは、自分たちを傷つけて踏みにじる大人たちの言動に対して、咎めるどころか身を守る術すらない。
「大人の世界を半分しか見たくなかった」から片目をくりぬいたニコのように、ゼラも自分の心を守るために「傷つかない機械になりたい」と望んでマシンになった。
(引用元:「ぼくらの☆光クラブ」 古屋兎丸 太田出版)
ゼラが作った「光クラブ」という共同体は、明確に歪んだルールで構成されている。だがそれは、黒い煙に覆われた街という共同体のルールに支配されながら、自分たちが苦しい時は子供たちに抑圧し傷つける大人たちから身を守るために生まれたものだ。
自分たちが閉じ込め苦しめる暗い街(共同体・社会)と唯一戦う方法が、その中で別のルールによる共同体をつくることだった。
「光クラブ」のルールを見ると、彼らが何に失望して、傷ついているのかよくわかる。
ゼラの母親が自分を精一杯気遣っている子供に当たり散らすシーンは、残酷描写よりも胸糞だ。あのシーンの母親のように、子供に甘えていてもその自覚がない大人は多い。
「光クラブ」のいいところは、「子供たちが残酷にならざるえないこと」を同情的に描くのではなく、組織を制御できなくなった彼らの行く末を淡々と描いているところだ。
閉鎖的な組織で運営されるルールは極端な方向に突き進むし、先鋭化したルールを一回でも誰かに適用すれば「適用したこと」それ自体がルールに強い力を帯びさせる。
絶対的な力を持つ強いルールは子供にコントロールできるはずがなく、やがて自分たち自身を皆殺しにする。*1
背景も含めて考え合わせるととても残酷で辛い話なのだけど、作内では子供たちの行動だけに焦点を当てているので意外とサラッと読めてしまう。
カノンとライチの恋愛は、個人的には蛇足かなと思う。
マシンと人間、性欲と恋愛の対比なのだろうが、聖性と悪性を単純に二分化していることが好みに合わない。
この話は、やはり「絶望的な世界から逃れようとしてより暗いものに閉じ込められた少年たちの、因果応報的な残酷な運命」が本筋だと思うのだ。
「帝一の國」を全巻大人買いして読んでいるけれど、11巻の番外編「マヨネーズ皇帝」がまったく同じ話をしている。
この話、好きすぎて辛い。(高天原と裕次郎は嫌いだが、ヒルとユウは好き。複雑)
マヨネーズ、マヨネーズ。
*1:大人でもよくある現象。