南海キャンディーズの山里亮太とオードリーの若林正恭の半生を描いた「だが、情熱はある」の第三話を見た。(一話と二話は見損ねた)
山里と若林はもちろん知っているけど、それ以上のことはほとんど知らないので、完全にドラマとして楽しんでいる。
創作として見ると、無茶苦茶上質なルサンチマン文学だ。
このドラマ、どのエピソードを見ても「ああ……」と思う。
特に若林と父親の会話が、「俺おまか」と思うくらい既視感があった。
どこの家もこんな風なのだろうか。
若林が言う「俺がおかしいのか、周りがおかしいのか」というのは、不遇感をこじらせる時期に浮かぶおなじみの思いだ。
どこまで「俺を認めない世界がおかしい」と思えるか、その(筋違いな)恨みを正のエネルギーに転換出来るか。「才能」と呼ばれるものは、このエネルギーを維持してコントロールできる力だと思っている。
普通はどこかで社会に迎合する。そこまでエネルギーが持たない。
もしくは手っ取り早く負の方向へ行く。これまた大きなエネルギーを内部に溜め込む力がないから、発散できれば何でもいいという感覚になり耐えきれずに発散してしまう。
自分の中の恨み骨髄のエネルギーを一定の方向にのみ発散するために保ち続けるのは、大変なことだ。
「そのエネルギーを貯め込み続けて、ゼロ地点で正面から世間に自分の評価をはっきり問える」なら、結果的に認められなかったとしてもそれだけで凄い。
NSCに入学した300名のうち、卒業まで残ったのは50組(100名?)だけ、というのもさもありなんと思う。
「クレープ屋で客二人の前でネタを披露する、しかもまったく受けない」なんていう経験をしたら、普通は一回で心が折れる。
自分の位置をはっきりと突き付けられることをやり続けられること、他人からどれだけ価値を認められなくても、自分の可能性を信じられることが最も大きな才能なのだ。
山里が足軽エンペラーを結成する時に、相方に「俺が嫌な奴になりそうになったら言ってくれ」と頼む。
これが凄くグッときた。
ドラマの中の山里の「こじらせ具合」はすさまじい。
「俺はわかっているのに」「俺は出来るのに」「なぜ、周りにはわからないんだろう」というのは、ルサンチマンをこじらせる最大の要素だよな、と見ていて頷いてしまった。
それだけだったら、そこら辺りに佃煮にするほどいるただの嫌な奴だ。
だが山里は、自分が「嫌な奴だ」と認められて「そうなりそうになったら言ってくれ」と他人に頼める。
「自分を認めない世界」に恨み骨髄になっているルサンチマン持ちと「他人への信頼」は相反するものだ。
その相反するものさえ呑み込めるところが、本人が言う通り「本気」なのだろうということが伝わってきた。
漫才のコンビがどういうものなのか、誰かとチームを作るということがどういうものなのかやったことがないのでわからないが、「信頼を前提としなければ成り立たない」ということは想像がつく。
相手への不信を持っていたら、それだけで土台が崩れる。だからまずは信頼する、というのがコンビを組んで漫才をするための前提なのだろう。
それがどれほど筋違いなものだとわかっていても後から後からわいてくる不遇感や不全感からくる怒り、何もかもがうまくいかないのに、エネルギーだけがひたすら空回る焦り、その焦りからどんどん自分が嫌な奴になっていくような感覚も、自分の可能性を信じた瞬間に自分のダメさを思い知らされて奈落に突き落とされるような辛さも、「実家に帰って来た」ばりによくわかる。
ドラマを見ていると、年を取って消えてしまったそのエネルギーが自分の中に甦ってくるようだ。何を見ても何を聞いても懐かしい。
二人のように大成しなくとも、その気持ちわかると思う人はたくさんいそうだ。
第九話の感想。
「世の中に対して恨み骨髄」ルサンチマン文学が大好きだ。