突然、村上春樹の「沈黙」が読みたくなったので再読。
短編集「レキシントンの幽霊」に収録されている短編。
村上春樹の作品にしては珍しく、起こる事象が現実的で具体的、抽象度が低いので読みやすい。「好きな作品」としてちらほら名前を見かける。
テーマはいじめだけれど、「生きる姿勢」を率直に語っている。
「ドライブ・マイ・カー」もそうだったが、この鋼鉄の精神はどこから来るのだろう。
長編の主人公たちが状況に流されがちなのとは対照的だ。
未読の人のために筋を簡単に説明すると、主人公の大沢は同級生の青木という男に事実無根の噂を流されてカッとして殴ってしまう。
青木はそのことを逆恨みして、クラス全員が大沢を無視するように仕向ける。
この話の最後に、大沢は学生時代のいじめの思い出から学んだことを語る。
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。
自分では何も生みださず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。
彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりしないんです。
自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんて思い当たりもしないような連中です。
彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。
本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢を見るのはそういう連中の姿なんです。(略)
夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。
(引用元:「沈黙」村上春樹 P84 ㈱文藝春秋社/太字は引用者)
久し振りに読んで、今までさほど引っかからなかったこの箇所にドキッとした。
ネットにいると、自分が「顔というものを持たない人々」になっているかもしれない危うさを感じる。
何も考えずに「何となく正しく聞こえるから」「自分にとっていいこと風に聞こえるから」と言う理由で、賛同するのは余り好きではない。
好きではないけれど、「顔というものを持たない人々」になって「何かそれっぽいことを自分の考えでもないのに、多勢に乗っかって言うこと」は気楽だし、変な充実感もあるのでつい流されそうな時がある。
この話に出てくる「自分が軽蔑し侮蔑するものに簡単に押し潰されるわけにはいかない」(P81)というセリフが凄く好きなのだけれど、「顔(考え)というものを持たずに多勢に溶け込むことで充足したい願望」がまさに自分にとって「軽蔑し侮蔑するもの」なので、流されないようにしないとなあと思った。
人にとっては大して意味がない、こうやって「考えた道筋」が自分には重要だ。
「どうしてその結論にたどり着いたか」がわからないと、間違えた時に「どこで間違えたか」がわからない。
どこで何がどうしてズレたのかと考えて修正すること。その繰り返しが「自分自身の思考の体系」を作るのだと思う。
「自分独自の体系化された思考回路」がなければ自分で考えることが出来ず、「顔というものを持たない人々」になるしかない。
自分はそう思うので、今後も興味を惹かれたことは、まずは一人でゆっくりじっくり考えていきたい。
ブログを続けているのはそのため……というわけでもなく、ただ単に書くことが好きだから考えたことをツラツラ書いているだけなんだけど。