年末に見逃した「帝銀事件と松本清張」が、たまたまテレビをつけたら放映していたので視聴。見たのは第二部のドキュメンタリー部分。
結局「帝銀事件」の真相は未だに分かっていない。
731部隊の人間が、秘密兵器の実験を行っていた登戸研究所から青酸ニトリールを持ち出し、帝銀事件を引き起こした。
米ソの対立が激化していた当時の状況下では、GHQは731部隊の実験データが何としても欲しかった。生き残りの部隊員全ての戦争犯罪を不問に付す代わりに、データを渡すように取引を行っていた。
そのさなかに、部隊の生き残りが日本中を騒がせた凶悪事件を起こしたとなると取引が表沙汰になる可能性がある。それは困る。
731部隊と事件の関係を表沙汰にしないために、GHQが警視庁、報道機関、関係者に圧力をかけた。
しかしこれほどの大事件を迷宮入りさせるわけにはいかないから、平沢を犯人に仕立て上げた。
松本清張が「突きとめた事実」も、現代の視点で読むと陰謀論めいて見えてしまう。
ただ、この時代の背景を考えるとありえない話ではない。
犯人の人物像として、顔をさらした状態で、十何人もの人間に指示して毒物を飲ませる、被害者たちがもがき苦しんでいるさなか、金品を奪って逃走する。
倫理の問題を除いても、殺人という「労力」に対するハードルがかなり低い。
「人が苦しんで死ぬ状況」に慣れており、倫理も罪悪感もとっくに振り切れているような非人間性がある。
金銭欲などが極まって殺人というハードルを越えてしまったというより、最初からハードルを越えている人間が合理性を追求した結果の犯行に見える。
まったくの外部から見ても、平沢という一般人がこんな事件を起こすか……というよりも、起こせるのかという印象が強い。
また平沢が犯人だとしたら、毒物をどこから入手したのかなど不明な点は多い。
警察も当初は「731部隊に所属していた憲兵A犯人説」を最も有力視していた。731部隊の部隊長だった石井の家を何度も訪問したり、「憲兵A」に縁がある九州に捜査の手を伸ばそうとしていた。
ところがその線は唐突に消え、「平沢犯人説」一本に絞られていく。
それと共に、検事は平沢が自白するように誘導尋問を行い、報道機関は「平沢は過去に詐欺を働いている」などと印象操作を行う。最初は同情的だった世論も、警察や報道機関の動きを受けて平沢を「冷酷な殺人犯」という目で見るようになり、いつの間にか「平沢が真犯人」という空気が作り上げられていく。
「平沢犯人説」で周囲の見解が一致した瞬間に、その見解に沿って各々が操り人形のように動いていく。
「平沢は最初は犯行に使われた毒物が何かも知らなかった」
「犯行の状況を見れば、青酸カリよりも遅効性の毒物が使われた可能性が高い。その場合、一般人である平沢が手に入れられる可能性は低い」
「入手経路がいつまでたっても特定できない」
「生存者は、どうも犯人は平沢ではないような気がする、と証言している」
こういった「各々の見解が一致したストーリー」に反する事柄は、大したことではないと顧みられることなく捨てられ、ある日どこからともなく現れた「事実」が事実として広まっていく。
表向きは「始めから平沢が犯人かどうかの争点しかなかった」ということになってしまう。
平沢個人の人権や人生はもちろん、真相に誰も興味を持っていない。
「皆にとって都合がよく、それで事が丸く収まるもの」が事実になる。
「事実」というのは、確固として存在するものではなく、大勢の人が「それが事実だ」と認識することによって出来上がっているのではないか。
そして自分にとっての「事実」が他の人に認められなければ、どれだけ物的な証拠があろうと辻褄が合っていなかろうと、あたかもそんなものはなかったものかのようにされてしまうのではないか。
自分が見ていて一番怖いと思ったのは、ここだ。
「事実」は、そこに存在するものではなく、一人一人の人間が何とはなしに見ない振りをしたり、興味を持たなければ簡単になくなってしまうものなのだ。
ゲストのみうらじゅんが「平沢が画家ということもあり、こういう時は世間で何をやっているかよくわからなかったり、後ろ盾がないフリーランスの人間が犠牲になるということが身に染みた」というようなコメントをしていたが、自分も同じように、ある日突然「事実の陥穽」に落とされる怖さを感じた。
そういうことは誰の身にも起こりうるからこそ、事件から何年、何十年経っても「本当はどうだったのか」「何が起こっていたのか」を知ろうとする試みは大事だなと思った。
小説も買った。