*「隠蔽するための物語」と思われる話についてのネタバレが含まれます。
「一方通行の家」が自分にとって面白かった理由である「隠蔽するための物語」(造語)について話したい。
「隠蔽するための物語」とは何かは、以前↓のnoteに書いたことと重なる。
創作において「『作品が語ることができないこと』に注目する」という考え方。|うさる
「ある作品において重要なのは、それが言っていないことがらである。これはしばしば不用意にそう表示されているような『それが言うことを拒絶していることがら』とは同じものではない。(略)
これよりもむしろ、作品が言うことをできなかったことがらのほうが重要である」
(「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p47-48/太字は引用者)
「隠蔽するための物語」は「本来の構図を隠すために存在する物語」である。
表現は普通は「他の人に何かを伝えるために」行われる。
しかし「隠蔽するための物語」は何かを隠すため→「伝えないために」表現をする。
「語れないという事実を以て何かを語る」
「隠蔽するための物語」はその性質上、読んでいる人間には何ひとつ伝わらない、何が何だかわからずに終わってしまうことが多い。
「一体、何の意味があってこの話はあるのだろう?」と思われて終わってしまうにも関わらず、なぜわざわざ「隠蔽するための物語」があるのか。
「隠蔽するための物語」が、その効果を狙っているのは(真の物語を隠したい対象は)読み手ではないからだ。
「信頼のできない語り手」との大きな違いはここにある。
「信頼のできない語り手」は、作者から読者への効果を狙った手法である。
だから読者は大抵の場合、その「語り」が嘘であることに気付き(気付かされて)その上で物語を楽しむ。
「語りが十分ではないこと」自体は、読者に伝わるような仕掛けになっている。
対して「隠蔽するための物語」は、読者に「何が嘘か」が最後まで明かされないまま終わることが多い。
・幼馴染の家で一人で留守番をしていたら空き巣に入られた。空き巣は無事に警官に捕まったが、二人は家から出た途端に消えてしまった。
何年か後に、幼馴染の日記を読む機会があり、何年も前に急に消えてしまった母親の記述があったが、その箇所だけ文字がかすれて読めなかった。だから日記は幼馴染に返して忘れることにした。
「一方通行の家」において、上記の「語ることができる物語」を必要としていたのは誰か。
玉守である。
玉守は人に聞いてもらうためではなく、自分の心を守るために上記の話を「本当の話」として自分自身に語る必要があった。
創作として見れば、こんな造りの物語を作るのはどう考えても割に合わない。
赤の他人である読み手にとっては「微妙に辻褄が合わない話」「意味がよくわからない話」でしかないからだ。
もっと悪いことに「隠蔽するための物語が余りにうまく語れてしまった場合、そのそこにある隠蔽されたものが本当の意味で闇に葬られてしまう場合がある。
「隠蔽するための物語」は、隠蔽したいから語られるのではない。
「語れることを語ることで、語れないことを浮かび上がらせること」が本来の目的だと思っている。
自分は「隠蔽するための物語」が大好き*1なので、今後も収集を続けていこうと思う。
ある程度たまったら、一覧にして公開したい。
たぶん自分以外にも愛好家がいると思うので。
*1:最後まで「嘘であること」が明かされずに終わるなら、なぜ「隠蔽されている」とわかるかは、記事内で紹介したnoteに書いたり、「鬼滅の刃」の記事などで書いているので興味のある人は読んでもらえると嬉しい。