うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【ドラマ感想】「だが、情熱はある」第九話 あの黒歴史が今の自分を支えている&このドラマが好きすぎて辛い。

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毎週毎週待ち遠しくて仕方がない「だが、情熱はある」の第九話を見た。

これは二人の物語。

何者かになりたくて、でも何者になればいいのかわからない。

でもここからもがき続ける。二人の本当の物語。

しかし、断っておくが友情物語ではなし、サクセスストーリーでもない。

そしてほとんどの人において、まったく参考にならない。

だが。

情熱はある。

このオープニングナレーションで、毎度毎度テンションが爆上がりする。

どう考えても、そこは泣くところじゃないだろというところで涙が止まらなくなる。

今回は、若林が駄菓子屋の前で、「ズレ漫才」を思いついて彼女に意気揚々と「すっごいの思いついた」「体にマグマみたいなものを感じている」と話すシーンで涙腺が緩んだ。

自分でも何で泣いているのかよくわからない。

山里の話で、マネジャーの島が「自分では面白いと思っていることが、世間では受けない。私ってズレているのかなあって思ってしまう」という不安と落胆を吐露する。その流れから、若林の話では「世間とのズレ」を逆に強みにするという対比が良かった。

それもある。

でもそれ以上に、第九話の若林の言動の全てが「わかる」と思ってしまう。

いや「わかる」どころじゃない。

まるであの頃の自分が喋っているみたいだ。(危ない)

 

絶対にこれならいける、自分はやれるという高揚感も、でもこれでダメだったらどうしようという不安も、彼女に「面白いと言わせている」と思ってしまう気持ちも、「俺はあなたに甘えている」ということすら甘えなのはわかっていてもエクレアを投げてしまう気持ちも、ぐちゃぐちゃになったエクレアを拾って食べる気持ちも、「わかる」というより、自分の中のどこかで眠りについていたその気持ちが、起き上がって動き出すようだ。

 

「面白いですよ」と言われて救われている。

気を遣っているわけじゃなく、心の底から言ってくれているのもわかっている。

それでも自分が惨めで惨めで仕方がない。

相手の言葉を信じられず、自分のことを信じられず、不信という甘えの中にいるのはわかっているのに、どうしても自分を立て直せない。

エクレア投げるよな。そうそう拾って食べるよな。

自己嫌悪でぐちゃぐちゃになるよな。

久し振りにドラマに向かって語りかけている。

 

若林が「お前を春日にするんだよ」という文脈に乗って春日が「春日になれていましたかね?」と言う。

その話を踏まえて、谷勝さん(この人、名言大杉)が「同じネタなのに、前に受けなかったものが受けるようになったのは、ネタがあなたたちに馴染んだからだ」と言う。

「何者かになりたくて、でも何者になればいいのかわからない」若林が、若林になった。

やっと自分自身になれたから、「自分のネタ」が自分そのものになっている。そしてそれを人から認めてもらえる。

M-1で準優勝したこと以上に、「自分そのもの」であるネタを人に無視されず、初めて見てもらえた。認めてもらえた。

こんなに幸せなことはない。

 

あの頃の自分が見ていたら、「結局は今は有名になって認められた人間の話じゃないか」「成功すれば肯定される。成功しなければただの黒歴史。そういうもんだろ」と思ったかもしれない。

でも今見ていると、若林ほど有名にならなくても、それほどの才能がなくても、これほどのたうちまわって頑張れなかったとしても、あの頃の自分の黒歴史が今の自分を支えている。

思い出すと恥ずかしくなるような、高揚感や万能感や、それが次の瞬間にはグチャグチャの自己嫌悪になって、甘えているとわかっても八つ当たりしてしまうようなみっともなさがあるから、今の自分なのだ。

そう思いながら、懐かしさで泣きながら五十分見ていた。

 

もうひとつ第九話で印象的だったのは、似ているようで正反対な山里と若林の葛藤についてだ。

谷勝さんは若林に「自分が面白いと思うことを評価されるのは幸せ」と言い、その反対に「求められるものに応えられるほうが凄い。その苦悩や苦しみは大きい」と言う。

「自分が面白いと思うものを認められたい」と思う若林に対して、山里の葛藤は「自分は空っぽだから、どんなことをしても認められたい」というものだ。

自分はこのドラマは若林には前のめりで感情移入する一方で、山里の気持ちはよくわからないところがある。

「じゃないほう」扱いとは言え、南海キャンディーズは十分に売れている。しずちゃんもスタッフも山里あってのしずちゃんだと認めているのに、なぜこんなに嫉妬するのか。

でも谷勝さんが言うように「他人に求められることに応えることを必要とする、それ自体が原動力になる。そうでなければ自分が空っぽのように思えてしまう人」もいるのだ。

表現において「自分のやりたいことをやるのか、他人(世間)に求められていることをやるのか」は永遠のテーマだ。

自分もどちらかと言えば若林のように「自分のやりたいこと、面白いと思うことで認められなければ意味がない」と思うので、「評価軸をすべて他人に預けて、その期待に応えたり、その中で勝負するほうがずっとキツイのではないか」という谷勝さんの言葉には胸を打たれた。

「自分のやりたいことをやる」というのはある意味、「自分」という最後の逃げ道が用意されている。でも他人の評価の土俵で勝負するということは、認められなければすべてが無になってしまう。

どちらがいいということはないと思うけれど、どちらがキツイかと言われれば、確かに「自分の『面白い』を世に問う」よりも「他人の『面白い』に応えること」かもしれない。

 

来週はいよいよ二人が会うのか。

一週間が待ち遠しい。