*既刊のネタバレが含まれます。
以前から気になっていたけれど、「葬送のフリーレン」を検索にかけると、「関連性の高い検索」で「つまらない」が出てくる。*1
実は「つまらない」と思う気持ちもわかる。
「葬送のフリーレン」はエンタメ作品とは思えないくらい、話の文脈が読み取りづらく不親切に出来ている。
客観視点でいながら、感情を高める演出もほぼないので、描写の意図も読み取りづらい。バトル以外では登場人物の内面を長尺で説明することもないので、特定のキャラに感情移入して主観視点で話を楽しむのも難しい。
起こった出来事をただ淡々と描写し、それに対する登場人物の反応だけを見せる。
映画で言えば、先日見た「A/A2」に似ている。
ストーリーに通底する文脈を見せないようにする(意図を見せず、誘導しないようにする)のは、ドキュメンタリーならわかる。*2
だがエンタメでやるのはメリットよりもデメリットが大きい。
現代のフリーレンの冒険はつまらなくはないが、「美しい思い出」と比べるとどうしても淡泊に見えてしまう。
この話は他愛もないくだらない日常の積み重ね(人との関わり)が、かけがえのない思い出になって自分を支えるということを描いているので、「こういうものだ」と思うしかないか。それでも面白いは面白いし*3、と思いながら読んでいた。
だが11巻まで読んだ後に、もう一度一巻から読み返したら、初読の十倍くらい面白かった。*4
それで気付いた。
自分は11巻までこの話をどの角度から読んでいいのかわかっていなかった。
正確には自分にピッタリの角度を見つけることが出来ていなかった。
もっと面白く感じるはずだという感覚があるのに、その感覚にうまく照準を合わせることができない。
そういうもどかしさを感じていた。
「葬送のフリーレン」が、突然「今まで感じていた十倍くらい面白い」と思い出したのは、11巻まで読み、物語の中に自分の視点を見つけたからだ。
(引用元:「葬送のフリーレン」11巻 山田鐘人/アベツカサ 小学館)
「黄金郷のマハト」だ。
マハトは性格は自分に似たところはないし(魔族だから当たり前だが)、好きか嫌いかと言われれば好きでも嫌いでもない。*5
ただマハトの視点は、照準を合わせやすかった。
仮の視点として組み立てやすい「マハト」を用いて、もう一度「葬送のフリーレン」を一巻から読み直してみた。
そうしたら、初読の時はうまく合わなかったピントがようやくピッタリと合った。
例えばシュタルクがフェルンに誕生日プレゼントをあげなかったために、シュタルクとフェルンが喧嘩する話がある。(第4巻第29話「理想の大人」)
この話を最初に読んだ時、下のザインのセリフが凄く引っかかった。
(引用元:「葬送のフリーレン」4巻 山田鐘人/アベツカサ 小学館)
なぜザインが「フェルンが自分に相談しに来た」とわかったかが、わからなかったのだ。
参考までにフェルンがザインに「相談しに来た」時の会話を書いてみる。(赤がフェルンで青がザイン)
「可愛いポーチですね」
「嫌いか?」
「いいえ、ただ女慣れしていそうで不快です」
「そうか。シュタルクは見つかったか?」
「広場にいたのですが……」
「話しかけられなかったか。わかっているよ。嫌いな訳じゃないんだろう? 同年代の男子との接し方がわからなかっただけだ。青春だねえ」
「まあいい。好きなの選んでいいぞ。別の店、回ってもいいし」
「いいえ、結構です」
「じゃあ勝手に選ぶな」
「しかし、プレゼント忘れたとしても怒りすぎだと思うぞ。あいつ絶対、そんなマメなタイプじゃないだろ。多分、自分の誕生日も覚えていないぜ」
「私はシュタルク様の誕生日にプレゼントをあげました」
「へえ、そんときは一緒に選んだのか」
「何でそれを……」
「『好きなの選んでいい』って言われて断る奴なんか普通いないぜ。きっとそれが大切な思い出だと思っているからだ。だから断った」
「わかりません。ただなんとなくそうしたくなったんです」
「そうか。ならさっさとシュタルクに謝って、一緒にプレゼント選んでこい。あいつはガキなんだ。察しは良くないぞ。仲直りしたいんだろ? 想いってのは、言葉にしないと伝わらないんだぜ」
「そうですね」
「俺は宿に戻るわ」
会話だけを見ると、フェルンは「相談する」どころか、率先して話をしていない。
ザインの推測や質問に反応しているだけだ。
それでも会話の内容から、何となくシュタルクにどう接すればいいかわからず悩んでいることはわかる。だからザインが「フェルンは俺に相談したぞ」と言ったなら、まだしも(まだしも。二回言う)わかる。
だが、なぜこの会話の流れで「フェルンが相談するために自分のところに来た」とわかるのか? いざ会話が始まったら、「相談したい」と言われるどころかひと言も向こうからは相談していないのに。
ザインが当たり前のように気付いた「フェルンはザインに相談しに来た」ということに自分が気付いたのは、ごく最近だ。
しかも今の年齢になっても、ザインのように「フェルンは俺に相談しに来た」と他人(ここではフリーレン)に言うほど確信は持てない。
だからザインの年齢(作内の会話からすると三十歳くらい)で、↑の会話で「フェルンが相談しに来た」とわかり、しかも的確に「相談にのれる」ザインは、自分とかけ離れた存在だと感じてしまう。
感情移入したり共感するどころか、その前提になる視点がまったくわからない。
フリーレンもフリーレンで、「距離感って何?」と返している割には、ザインの「フェルンは俺に相談しに来たぞ、あんたじゃなくて」という言葉に、普通に「フェルンはハイターに育てられたからね」と返している。
「↑の描写ではフェルンはザインに相談しに来た、とわからない視点」が物語世界には存在しない。(人物がいない)
だからこの後の「ザインはちゃんと大人をやれている」という話も、頭では「いい話だな」と思っても感覚的にピンとこないのだ。
だがもし、マハトがザインの立場だったらどうか?
マハトは人間が好感を抱くような振る舞いを出来るから、フェルンは相談に来るだろう。
だがマハトがザインの立場だったら、フェルンが「相談しに来た」とわからない。マハトはグリュックに対して何回かそういう「やらかし」をしている。
だが「大人のふり」が拙いとしても、マハトも「(第29話の文脈でいう)大人として振る舞おうとしている」。
マハト視点を入れると、自分が「大人としての振る舞い」を何とかそれっぽくなる*6よう試行錯誤した道のりが感覚としてよみがえってくる。
その感覚を前提にして話を読むと、ハイターの
「本当は私の心は子供のころからほとんど変わっていません。理想の大人を目指して大人の振りをして、それを積み重ねてきただけです」
「子供には心の支えになる大人の存在が必要ですから」
というセリフが頭ではなく胸に沁みとおってくる。
そこで初めて、自分よりもずっと巧みに出来ているとしても、ハイターやザインも自分と同じように悩んで試行錯誤をして「大人の振りを積み重ねてきた」のだと実感できた。
ハイターとザインの比較だけだと、「フェルンが相談しに来た」と気付けない(気付いてもそうだと確信が持てない)自分には話に接続できる接点がない。
「これで気付くのか。凄いなあ。まあそりゃ大変だろう。フリーレン、褒めてあげてくれ」で終わってしまう。
人間に興味を持って、その気持ちをわかりたいと思い、「わかったと思ってはやらかす」を何度も繰り返して「やっぱりわからないかもしれない」と思うマハトの視点が入って、「葬送のフリーレン」は自分にとって「自分事の話」になった。
「葬送のフリーレン」は、そのシーンにおける(特に登場人物の内面を読み解く)コンテクストが極力排除されている。
エンタメ作品なのに、日常のシーンや会話には読み手にインパクトを与えたり、感情を誘導するような演出がかなり少なく、「視点」となるように登場人物の主観が語られることが少ない。(例えばフリーレンはことあるごとにヒンメルのことを思い出すが、その時に、そして今自分が何を考え感じているかを言葉にすることはほとんどない)
だから読み手は率先して、物語を楽しむコンテクストを自分で見出さないといけない。
「観客席にいる読み手を楽しませる」のではなく、読み手も自分の感覚を持ち寄って話に参加する作りになっている。
フェルンとシュタルクの関係は、これまでの人生で百回くらい見聞きしたことがあるような関係だが何度経験してもどう扱っていいかがわからない。
(引用元:「葬送のフリーレン」4巻 山田鐘人/アベツカサ 小学館)
ほんとこう叫びたくなる。(共感)
だがこれを面と向かって言ったらとんでもないことが起きるということも、今まで生きてきた中で学んだ大切な思い出なのだ。
*派生話題。