コーマック・マッカーシーの小説は、初めて読んだあとたいてい続けてもう一度読み返すのだが、「すべての美しい馬」は一度しか読まなかった。
親友同士二人の少年が家出して、牧場主の娘と身分違いの恋に落ちて引き離される。
あらすじだけを聞くと驚くくらい単純な、通過儀礼的青春、成長小説である。だからその外形だけを読み取って「趣味じゃないな」と思ってしまったのだ。
今回読み返して気付いた。
「すべての美しい馬」は「馬が魂の暗喩になっている」とわからないと、意味がまったく通じない話だと(つまり初読の時はまったく意味が取れていなかった……。「ふうん」としか思わないはずである)
一頭の馬の死に立ち会ったときにある種の条件がそろうと見えるが、それというのも馬という生き物は全体でひとつの魂を共有しており一頭一頭の生命はすべて馬たちのもとにして、いずれ死すべきものとして作られているからだ。
だから仮に一頭馬の魂を理解したなら、ありとあらゆる馬を理解したことになる(略)
「じゃあ、人間はどうなんだろう?」(略)
人間同士のあいだには馬のような魂のつながりはなく、人間は理解できるものだという考え方はたぶん幻想だろうといった。
(引用元:「すべての美しい馬」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P184‐185)
ジョン・グレイディとロリンズ、ブレヴィンズは、馬を通して魂を共有している。
ブレヴィンズが「馬が自分のものであること」に執拗にこだわるのも、ジョン・クレイディにとってブレヴィンズはただまとわりついてきただけの厄介者に過ぎないにも関わらず、ブレヴィンズの馬を取り戻そうとするのもそのためだ。
「馬」にこだわりを持たない登場人物は「人間」であり、「人間」は理解し合えない。
「人間」は、他人に対してどんな凄惨な暴力でも振るう。その暴力によって「馬」を持つジョン・グレイディたちは踏みにじられ傷つけられる。
ブレヴィンズが一人で森の奥に連れて行かれて殺されるシーンは、動物が殺処分されるような残酷さがある(初読の時は読み落としたが、ブレヴィンズは殺される前に輪〇されているのか。……きつい)
ブレヴィンズが結局何者かわからない(抽象的な意味では人間かどうかもわからない)ことが、ブレヴィンズが「馬」であったことを強調している。
子供であるにも関わらずブレヴィンズが裁判にもかけられず殺されたこと、その時にひと言も制止の言葉をあげられなかったこと、とばっちりで捕まり無法地帯である刑務所に入れられたこと、そこでは人を殺さなければ生き抜けなかったこと。
そのすべてがジョン・グレイディ、ロリンズ、ブレヴィンズが共有する魂を傷つけた。
「おれが署長を殺したいと思った理由は、署長が林のなかへ少年を連れていって殺したときにおれがあの場にいて何もいわなかったからなんです」
「何かいえばどうにかなったのかな?」
「なりませんでした。でもそうするのが正しいことだった」
(引用元:「すべての美しい馬」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P476)
そこから回復して生きていくために、ジョン・グレイディは自分(たち)の魂である「馬」を取り戻さなければいけなかった。
「何が目当てなんだ?」と署長がきいた。
「おれの馬をとりにきた」
「おまえの馬?」
「そうだ」
(引用元:「すべての美しい馬」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P423)
初読の時は「何で署長を殺さないのか」と思っていたが、むしろ殺しては駄目だ。
「おまえを殺す気はないんだ」とジョン・グレイディが言った。
「おれはおまえとは違うからな」
(引用元:「すべての美しい馬」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P452)
ジョン・グレイディが話しているのは「殺人はいけない」という社会における禁忌ではない。
「魂を持つ馬」と「理解し合えない人間」の比較だ。「自分の馬」を取り戻したジョン・グレイディには署長を殺す理由がない。
「すべての美しい馬」は青春小説としての外形に余りにうまく収まりすぎていて、その他の視点で読もうという発想がわかなかった。
「エンタメの外枠を用いて描く」というマッカーシーの書き方の癖(?)がわからないと、その外枠が本題なのかなと思ってしまう。
「ノー・カントリー・フォー・オールドメン」でも出てきたコイントスの話*1で、やっと「いつもの書き方だ」と気付いた(遅い)
マッカーシーの小説は、自然や野生の動物の描写が常に細部まで緻密で美しいけれど、この話では馬の描写がとりわけ美しい。
ジョン・グレイディに代表される少年や少女たちの魂を表しているからだ。
また人物の具体的な行動の描写は簡潔なのに、叙景する時は文章が凄く詩的になる。
世界の心臓は恐ろしい犠牲を払って脈打っているのであり、世界の苦悩と美は互いにさまざまな形で平衡を保ちながら関連し合っているのであって、このようなすさまじい欠陥のなかでさまざまな生き物の血が究極的には一輪の花の幻影を得るために流されるのかもしれなかった。
(引用元:「すべての美しい馬」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房 P459)
こういう文章は、両方の足首を持たれて左右に逆さに振られても自分から出てくる気がしない。ほんとすごい(小並感)
ついでなので国境三部作を全部読み返す予定。
また新たな発見があるかな。
*1:初読の時は「ノーカントリー」を読んでいなかった。