桐野夏生のインタビューを読んだことをきっかけに、ずっと読みたいと思っていた「オパールの炎」を読んだ。
一気読みしてしまった。
桐野夏生の作品は、何よりまず創作として抜群に面白い。先が気になって、読み終わらないと本が置けない。
「オパールの炎」は五十年前に、中絶を禁止した法律に反対しピル解禁を求めた、女性活動家・榎美沙子(小説では塙玲衣子)をモデルにしたセミフィクションである。
塙に興味を持ったライターの女性が、かつて塙の周りにいた人たちにインタビューをしていく形式で話は進む。
「塙玲衣子」は五十年前は有名だったものの、消息が絶えてから長い時間が経っている。
多くの人は関心も記憶も薄れている。
インタビューを受ける人たちは、性別、年代、学歴、生きてきた環境、性格、物の考え方、塙との関わりかたなどすべてが違う。
思い出して懐かしむ人もいれば、蔑みを交えた論評を口にする人間もいる。悔恨する人もいれば、未だに恨んでいる人もいる。
特に塙の片腕的存在でありながら後に袂をわかった辺見茂斗子の無関心ぶりや、塙の幼馴染だった森下義雄の素朴な憧憬の描き方が良かった。
「どれだけ密な付き合いをしていようと、縁が切れたら忘れてしまう」
「昔から凄い子で、地元の有名人。でも同窓会の葉書に返事をしないとかちょっと冷たいよな」
色々なインタヴュイーたちが塙のことを話すことで、直接出て来なくとも塙がどんな人物か、どんな環境に置かれていたかがわかってくる。
「塙玲衣子をどう思うか」という同じひとつのテーマを話すことで、インタビューを受ける側も「どんな考え方をして、どういう生き方をしてきた、どんな人間か」が浮かび上がってくる。
「オパールの炎」は、「社会に消されたフェミニストを描く」という筋とは裏腹に、一見するとさほど強い主張をしているようには見えない。インタビューを受ける人たちの塙に対する感情は「否定寄りの無関心」が多く、話はぼんやりしている。
賛否、是非、白黒がはっきりしない語りが並べられているだけだ。
何が言いたいかよくわからない。
そんな風にさえ思える。
にも関わらず、この本を読んで自分が感じたのは「強い怒り」だった。作品の奥底に流れるマグマのような激烈な怒りに圧倒され、乗っとられそうな感覚にさえなる。
私は小説の中で、“悩む人”を書いていますが、寄り添うというよりも、その悩みの実態を知りたくて書いています。
その人がどういう痛みを持って、それに対してどう考えているのか。その登場人物に寄り添っていますが、それを読者の方は代弁と思ってくださるのかもしれません。
ただ、そこに何かメッセージを込めることはあまりないというか、小説ってそういう種類のものではないんです。メッセージを込めてそれを発信するのではなくて、その登場人物のいる世界全体を描いているので、「その世界の中で読むことで味わってください」と提示しています。
(「クローズアップ現代・その"痛み"を抱きしめて 作家・桐野夏生」/太字は引用者)
創作は作者の主張を読むものではなく、その世界を、そこに生きる生身の人間を描くものだ。
そう思う。
伝えたいことが明確なら創作という媒体を使う必要はない。文章にして主張したほうが、齟齬なく読み手に伝わりやすい。
そうではない、言葉には出来ない、具現化できないものまで伝えられるのが創作の強みであり凄みだ。
「オパールの炎」を読むと、言葉では説明されなくても、塙玲衣子が何と戦わなければいけなかったのか、それがどれだけとらえ難く、ゆえに戦うことが難しいか。
言葉では輪郭を捕らえることが難しいものが、ありありと読み手に感じられるようになっている。
インタビューを受ける人間の中には、わかりやすく女性を馬鹿にする人間が出てくる。
セクハラ・パワハラは当たり前、週刊誌は部数を売ってなんぼだという価値観の元編集長や、塙によって父親を糾弾されたため家庭が崩壊し、そのために直球の「ミソジニー」の言動をする男などだ。
塙玲衣子は美人だけど、男に嫌われていたから、いいネタだったね。ただ、あんまりやると弱いものイジメになるから、男らしくないっていうんで、悪を懲らしめるかのように強くも書けない。
その塩梅が難しいんだ、週刊誌は男の読み物だからね。
だけど、塙は弱いものというよりは、キワものとか、イロものの扱いな感じだったな。
正々堂々と闘う相手じゃなかったんだよ。こんなおかしな女たちがいて、笑止な事をやっているぞ的なからかいの記事だね(略)
中絶とかピルとか、男には関係ないってみんな思っていたんじゃない?
当時の男たちは。私もそうでしたよ(略)
マスコミの男たちも薄々はわかっていたんだよ。みんなインテリだからね。日本の女性観は古くて封建的だって。
しかし塙のやり方じゃ、誰からも共感を得られないでしょ(略)
当事者に恥をかかせて、それで溜飲を下げるなんて低劣だよ。男たちはみんなそう思っていたと思う。
だからこそ、週刊誌の出番なんだ(略)
塙は美人というだけじゃなくて、才媛だしね。イジメ甲斐のある女だったよ。
(引用元:「オパールの炎」桐野夏生 中央公論社/太字は引用者)
現代だと一読しただけで引く内容だ。
だが編集長・奈良貞雄の話で自分が興味を引かれたのは別の部分だ。
奈良は東大卒のエリートで、当時部数が落ち込んでいた週刊誌を立て直した実績を持つ。
編集長に抜擢された当初は、年齢が若いということで叩かれた。
私が編集長になった時は、まだ三十六歳だった(略)
もちろん、若造に何ができるだのなんだのと、古いブンヤ連中に悪口を言われたもんですよ。
みんなやっかみやがってね。苛められたよ。ま、そういうヤツらなの(略)
バブルの記事でちょっと財界関係とトラブルがあってね、編集長、辞めさせられたんだよ。
(引用元:「オパールの炎」桐野夏生 中央公論社/太字は引用者)
奈良の経歴、置かれた状況、生きた過程は、塙に近い。
塙も既存の社会の構造に反する存在であるために(その力を発揮したために)「いじめられ」、最後は大きな力を持つ「財界」と揉めて、社会的に存在を抹消された。
だが奈良自身は、塙と自分が似た部分があるとはまったく思っていない(だから塙はからかいいじめる対象だった、と何の屈託もなく言える)
奈良は「社会の中で」そういう境遇に陥ったが、塙は「社会から逸脱することによって」そういう境遇に陥ったからだ。
奈良は、自分を「苛めた」(抑圧した)社会の論理自体は否定していない。
「自分がちょっとしくじった」そう思っている。
自分と塙を比べて考える(接点があるかもしれない、同じ境遇だったかもしれない)という発想すらないだろう。
この「社会の内と外」という感覚はどこからくるのか。何によって分けられているのか。
後に、奈良よりもずっと筋が通り「正しい」S氏によって「社会とは何なのか」が語られる。
銀行に勤めていたS氏は、部下だった男性に見合いをすすめ相手を紹介する。
部下の男性は、学生時代から付き合っていた婚約者がいたがその相手を振り、見合い相手と婚約する。
元婚約者から依頼を受けた塙は、男性の勤め先の銀行に「男性を糾弾しにいく」と事前通告する。
対外的なイメージを第一に考える企業は、塙に金を払い事を丸く収めようとする。男性は職場に迷惑をかけたことを苦にし、退職して後に自殺する。
S氏は部下だった男性の死に責任を感じ、塙を憎んで生きてきた。
このS氏はこんなことを語る。
女の権利を主張するだけなら、まだ可愛い。それは一応、正しいからです。
そのくらいなら大目に見るのに、あろうことかあるまいか、企業に対しても金を要求してきた(略)
男なら当然想像がつきますよ。
社会に対して、これだけのことをしたら、それはただじゃ済まないんです。
だからね、あなたがたが馬鹿にする男たちは、用心深く生きているんですよ。
それが、塙にはわかっていなかった。
(引用元:「オパールの炎」桐野夏生 中央公論社/太字は引用者)
一介の勤め人を標的にして企業から金を引き出すという手法は悪辣であり、塙はその罪を(法によって)問われるべきだ。
だが一方で塙を強い力でもって、社会から抹消した人間たちについては、自身も同じ目にあった奈良も含めて誰も糾弾しない。
彼らにとって「男であれば用心深く生きる」のが当然であり、用心深さを忘れれば「そのポジションを失い、社会から排斥されるのも仕方ない」という論理の中で生きている。
その「社会」の中では「女性は可愛く、一応正しいと認めざるえない主張をすることだけを大目に見られている」
一応正しいと認め、大目にみるのは誰か。
「塙のやり方は低劣」
そう断じながら、同じような「塙に対する低劣なやり返し」が「男の雑誌」で許されていたのは何故か。
私のパフォーマンスは、やりすぎだと非難の的になったが、人々に女性解放の真意を広く知らしめた(略)
自己正当化? いや、絶対に違う。
恥を掻いただけと言われても、私自身は恥を掻いただけだとしても女性に対するアンフェアネスを世間に知らしめたかった
(引用元:「オパールの炎」桐野夏生 中央公論社/太字は引用者)
塙を非難したのは、「社会」の男たちだけではない。
Sの部下である自殺した男性の妹は、塙を今でも恨んでいる。
塙の弟の妻はうっかり、塙の夫を「ご主人さま」と呼んでしまい、それを咎められ以後塙の前ではおどおどするようになる。(エリート主義や教育格差の問題からの批判も、塙に対してされている)
他の女性解放者たちは、塙が「マスコミ受け」を狙っていると言い、塙のせいで女性解放運動そのものが貶められていると批判する。
塙の片腕だった辻井は、塙が宗教まで作ろうとしたためついていけなくなり、袂をわかつ。
女性たちは一様に「女性の体は女性自身が管理すべきだ、そのためにピル解禁をすべきという塙の主張は正しいと思う。塙は五十年先を見ていた。だがやり方には賛同できない」と言う。
塙の活動は過激すぎた。仲間に対して筋が通らないこともしている。迷走している部分もあるし、同じ女性活動家から見てさえ、害悪が大きすぎるやり方だった。
ただ、それでも正解がない中で、「社会」の論理という見えないもの、社会と抵触しつつ社会そのものではないもの、その輪郭を描きだすのがとても困難なもの「女性は『社会』の論理において正しいと認められることを一線を越えず可愛く言うだけなら、主張すること自体は大目に見てやるのに」という論理と戦うには、この当時であればそうとうやり方が限られることは想像がつく。
「オパールの炎」から感じる激烈な怒りは、この「社会」の論理のアンフェアネスさに対するものである。
「主張のために過激なことをして耳目を集める」というやり方は現代でも問題になっている。また、法や倫理を逸脱した過激な活動の犠牲になるのは、たいてい権力に近い人間ではなく社会の中で弱い人たちだ。
「(仮にそれが正しいとしても)主張のためなら、何でもやっていい」という考えには自分は賛同できない。
ただやり方には賛同できないとしても、その底に眠る理不尽さ(アンフェアネス)に対する怒りは理解し、共感することはできる。
塙を始めとする女性たちが戦わなければならなかった「社会」はどんなもので、どんな成り立ちをしており、どんな論理で動いていたのか。
「社会」との戦いの困難さとは何なのか。
そういったことが、特に強い主張もないのに目の前に形あるものとして浮かび上がってくる。
決して無謬ではない女性主人公が、矛盾や葛藤を抱えた生身の人間として、存在をかけて「社会」と対峙する。
そういう話を読めて良かった。