※この記事には「特攻の島」全9巻のネタバレが含まれます。未読のかたはご注意ください。
人間魚雷と言われた兵器「回天」に乗り込む若者たちを描いた「特攻の島」全9巻を読んだ。
凄い話だった。
普通は「戦争」「特攻」という重い要素を含んでいると、読んでいるほうもどうしても話のすべてをその要素を通して読む。
「テーマは反戦なのか」「特攻の悲惨さを伝えている」など、時代や状況の特性のほうに意識が引っ張られる。
「特攻の島」が凄いのは、「回天戦」について読み手が体感できるようにディティールまで描いていながら、それは話の最も大事なことを伝える手法であるところだ。
この話は普遍的な人間の生きる意味について(それを本人がどう実感するか)を描いている。
渡辺たちは「戦時中に兵隊になり、自分が死ぬことが前提の回天に乗らなければならない状況」に生まれた。
現代を生きる人間が八十年ほどかけて薄く引き伸ばして考えることを(そういう長い年月をかけてやるものだという可能性自体はあるものを)たった半年でやるように強いられる。
(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
自分がなぜ生きるのか、何のために死ぬのか。
生きるとは、死ぬとはどういうことなのか。
自分とは何なのか。
渡辺は半年という圧縮された人生の中で、平和な時代の人間が一生をかけて考えることを*1考え実感する。
戦争(特攻)の悲惨さを描く話は、平和な今の時代を生きることと戦時を生きることは違う→「現代を生きる人間にとって戦争は『状況』ではなく『歴史』である」ことがデフォルトになっている(戦争の話でタイムスリップものが多いのは、現代を生きる人間にとって「歴史」である戦争を「状況」にするための一番効果的な手法だからだ)
だが「特攻の島」では、「人が生きる」ということはどんな時、どんな状況でも同じなのだ、という発想が根底にある。
「兵隊となり回天に乗らなければいけない状況」は、渡辺の実存を描くための背景に過ぎない。
回天(的)は同じように見えて個体ごとに癖があり、その人間の的は本人しか思う通り操縦することができない。
(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
渡辺が的の内部に乗り込んだ↑の図や、開発者の黒木が閉じ込めらた時に内壁すべてに言葉を書いたことを見ても、「特攻の島」における「回天(的)」は自己そのものだ。
兵隊たちは皆、回天に乗ることによって「なぜ自分が回天に乗り込むことになったのか」→「なぜ自分が自分自身の内部にいるのか」→「なぜ自分は自分として生まれたのか」を考え続ける。
渡辺はこの時代、貧しい環境に生まれた男として、兵隊にならざるえなかった。周りは戦争の空気に支配されており、回天の乗組員になることに疑問を抱く余裕すら与えられない。
「泊地以外の攻撃は許可しない」と言われればそれに従い、「洋上作戦に切り替える」と言われればそれに従い、自分が志願しても「もう後進の指導に当たってくれ」といわれればそうせざるえず、その後に「状況が変わったからやはり熟練兵として回天に乗ってくれ」と言われれば乗らざるえない。
何もかも時代に、環境に、状況によって決められ、自分の意思で決められることはひとつもない。
そんな状況に置かれた渡辺が、ただひとつ持っている誰にも侵されない領域は、自分の頭の中だけだ。
自己の内部だけは誰も入ることができない。「どこで死ぬか」は決められなくとも、「何のために死ぬか」は決めることができる。
「自分の意思など関係ない、状況によって死ぬとわかっていても回天に乗るしかない。死ぬしかない」
そういう状況に置かれながら、渡辺は「自分の意思とは関係のないところで決められてしまった自分の生死の意味」に抗うように「自分の死(生)の意味」を自分自身で決める。
(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
「自分が何のために死ぬか(何のために生きるか)」を決めることによって、自分の意思とはとはまったく関係なく、わずか二十年で死ぬしかなかった自分の生の意味を掴み取ることができたのだ。
関口も渡辺と同じだ。
(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
関口が出撃するシーンは何度読んでも泣くが、「悲しい」というのとも違うし「可愛そう」というのとも違う。
あえて言うなら「そうだよな」という感想しか出てこない。
(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
自分の「構造と本質」がしっかり形にされた「自分よりももっと自分であるもの」が人に可視化されていることが証明され、それが形として残るなら、それ以上の生きる意味はない。
渡辺が絵を描いた人物が渡辺自身も含めて死んでしまうのは、「人が生きる究極の目的」が果たされてしまうためだ。
「特攻の島」はほぼ全編、訓練中や戦闘中など軍隊内部の話である。
作品の設定上、「軍隊の論理や言語」を通してしか登場人物たちは話すことが出来ない。
特攻するという時すら「戦局まさに逼迫、真に神国興廃を決す秋、大御心を安んじ奉らんと期し居り候」という言葉しか残すことは許されない、言葉が抑圧された世界だ。
その中で渡辺は「自分自身の心の底から出た平易な言葉」を残した。
(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
その内容はもちろん、その言葉使いからも、「時代」「戦争」「軍隊」「特攻」という自分では選べなかった「状況」という鋼鉄の輪から、渡辺が自分自身の力で自分を取り戻すことができたことがわかる。
これは渡辺たちの五倍の百年生きたところで出来るかどうかわからない凄いことだ。
こういう造りの話だと、渡辺がつかみ取った生の実感を肯定的に描くことが「特攻を美化すること」につながってしまう危険がある。
「特攻の島」は渡辺の実存と並行して「戦争の悲惨さ」も描写しており、「渡辺(や他の回天の乗組員)の生き方を肯定すること」と「戦争の悲惨さ、特攻の異常さ」を同時に描いている(ここが凄い)
(引用元:「特攻の島」佐藤秀峰 佐藤漫画製作所)
仁科や関口の絵を描き、彼らの存在の受け取り手である渡辺がラストで死んでしまったのはかなり意外だった。
あれだけ周りから「お前は生きろ」と言われたら生き残りそうなものだが、そういう人物ですら死んでしまうところも「戦争とは何なのか」という描写の一環なのかもしれない。
……渡辺にも関口にも生きて欲しかった。
登場人物では豊増艦長と関口が特に好きだ。
続き。
*1:もしくは考えないことを。