※この記事には映画のネタバレが含まれます。未視聴のかたはご注意ください。
ずっと昔、友達にすすめられたのを思い出して(今さら)視聴した。
見る前に想像したより、十五倍くらいいい話だった。
先日見た「落下の解剖学」と同じ、目撃者がいる前で起こった転落事件が偶発的な事故だったのか、故意の殺人かを法廷劇によって解明していく話だ。
東京で有名なカメラマンになっているタケルは、母親の葬式に出るために故郷に戻る。
故郷では兄のミノルが家業を手伝いながら、気難しい父親と二人で暮らしている。ミノルは同じガソリンスタンドで働いている智恵子に思いを寄せているが、タケルはそれを承知で智恵子と関係を持つ。
次の日、ミノル、タケル、智恵子の三人は近くの渓谷に行く。ミノルと智恵子が一緒に吊り橋を渡る途中、智恵子が橋から転落して死亡する。
一緒に橋の上にいたミノルは、故意に智恵子を突き落とした疑いで裁判にかけられる。
「ゆれる」は登場人物が不可解な言動を取るが、その動機の説明がほぼない。
登場人物たちが取る不可解な言動の理由は何なのか?
その理由を考えながら、ストーリーの感想を述べたい。
なぜタケルは智恵子と関係を持ったのか?
最初に浮かぶ疑問が「弟のタケルは、なぜ智恵子と関係を持ったのか?」である。
タケルは智恵子にほぼ関心がない。タケルが智恵子にちょっかいを出したのは「兄のミノルが智恵子を好きだから」である。
ではなぜ、タケルは兄のミノルが好きな女性を誘ったのか?
兄への対抗心か? というと違うと思う。
タケルが智恵子に手を出したのは、そうすればミノルが智恵子を殺すのではないかという期待があったからではないか。
つまり、タケルはミノルに智恵子を殺させたくて智恵子と関係を持ったのだ。
タケルは兄ミノルを陥れたがっている
映画の中でミノルが激高して言ったように、弟のタケルは兄に比べて何もかもが恵まれている。
タケルは「東京に出て成功し、自分だけしかできない仕事を持ち、女性にモテる」
対してミノルは「地元に閉じ込められ、代わり映えのしない生活を送り、女性にモテない」
「兄ミノルが弟タケルに嫉妬し、陥れようとする話」(いわゆるカイン・コンプレックスの話)ならわかりやすい。
しかし「ゆれる」は逆だ。
「すべてに恵まれた弟」が「何も持たない兄」を陥れたがっている。
この話の最も大きな謎は「なぜタケルがミノルをこんなにも陥れたがっているのか」だ。
その理由が終盤までわからない。そこが面白かった。
タケルが兄を陥れようとしているのは「兄の本性」を知るため。
タケルは兄ミノルを嫌っているわけでもない。憎んでもいない。むしろ慕っている。
タケルが刑務所の面会室で言った「俺に出来ないことをしている兄ちゃんを尊敬している」という言葉も、裁判の時の「兄だけは誇らしいと思っていた」という言葉は嘘ではない。
タケルは心の底からミノルを尊敬している。
では、「穏やかで物分かりのいい兄もひと皮むけば身勝手で弟に嫉妬するような人間だ、その本性が知りたい」ということか。
そう、タケルは「兄の本性が知りたい」のだ。
一体なぜ、タケルは好きな女性を奪ってまで兄の本性を知りたいのか。
「すべての人間は悪性を持っていると証明したい」からか。
そうではない。
タケルは(少なくとも「ゆれる」の作品内では)兄のミノルにしか興味を持っていない。タケルが知りたいのは、あくまで「兄の本性」なのだ。
タケルのすべての行動の動機は「元の兄貴を取り戻すため」
裁判で「ミノルが智恵子を突き落とした」と証言する前にタケルはこう言う。
「僕は元の、僕の兄貴を取り戻すために、自分の人生をかけて本当のことを話そうと思います」
一見「ミノルは弟にひどいことを言うような人間ではなかったのに、事件のせいでおかしくなってしまった。(事件前の)元のミノルに戻ってもらうために、真相を明らかにする」という意味に聞こえる。
だがそうではない。
「元の、僕の兄貴を取り戻す」というのは、事件前からの物語全編におけるタケルの行動の動機だ。
タケルが智恵子を誘ったのは、智恵子と関係を持つのが「僕の兄貴を取り戻す」ための一工程だからだ。
地元に閉じ込められ家業を継ぎ、気難しい父親の面倒を見ながら好きな女性には遠慮して告白もできない。
そういう境遇にいながら、実家のことなどほったらかしで東京に出て好きなことをし、仕事でも成功している弟に嫉妬もせず、いつも優しく穏やかに接してくれる。
タケルはそういうミノルが、「元の、僕の兄貴(本当の兄貴)」とは思えなかった。
何故ならタケルは「初めから人のことを疑って、最後まで一度も信じたりしない」人間だからだ。
タケルはミノルのことを疑い続けた。
何も不満がないはずがない。自分に嫉妬しないわけがない。疎ましく思わないわけがない。本当は自らの境遇に、弟である自分に怒りを抱いているはずだ。
だからその本性を見たくて、兄が好意を抱いている智恵子と関係を持ち、何の躊躇いもなく捨てた。
そうすればミノルも自分か智恵子かどちらかに激高する。その果てに殺しさえするのではないか。
そう考えたのだ(『考えた』とまで言うと語弊がある。無意識にそうなるかもしれない、そうなっても構わないくらいの気持ちだったのだと思う)
タケルは「本当のミノル」に会いたい
一体なぜ、タケルは「本当のミノル」にこだわり続けるのか。
「本当のミノル」に会いたいからだ。
なぜ会いたいのか。
会わないと手をつなげないからだ。
タケルはミノルと手をつなぐために、智恵子を寝取り、ミノルを罪に陥れようとしているのだ。
智恵子が吊り橋から落ちた時、タケルは兄をまるで子供のように抱えて「大丈夫だよ」と繰り返す。また、子供のころの思い出のフィルムの中に、吊り橋を恐る恐る渡るミノルと手をつないで、タケルが先導するシーンがある。
タケルはミノルともう一度、こういう関係に戻りたいのだ。
だからラストが「危うくも確かにかかっていたか細い架け橋の板を、踏み外してしまったのは僕だったんだ」というクソのようなポエム言葉で終わるのだ。
タケルは、冷酷で身勝手で自己中で傲慢な人間である。端的に言ってクズである。(母親の葬式に時間通り来ない、東京に恋人?がいながら、兄の好きな女性を寝取り捨てる、伯父に対して札束を積む、自分が顔を合わせづらいと兄に会いに行かず岡島にキレられるとタケルのクズさを表すエピソードは枚挙の暇がない)
そして、他人も自分と同じはずだと考えているために疑り深い。
もし逆の立場だったら、タケルは自分の境遇を呪い、全てを恨み、自分の人生は何だったのだと思い、自分とは違う兄弟を妬み憎むだろう。自分が心を寄せている女性を寝取った弟など絶対に許さないはずだ。
タケルはミノルに、自分と同じそういう人間であって欲しかった。
同じ「場」に立たなければ、手をつなぐこと、一緒に橋を渡ることができないからだ。
「兄と上京すること(渡りきること)」ではない。「兄と手をつなぎ吊り橋を渡るという行為」をしたかったのだ(だからラストの台詞が「うちに帰ろうよ」なのだ)
ミノルは弟のすべてを受け入れている
一方、兄であるミノルのほうはタケルをどう思っていたのか。
ミノルは弟の性格や心情を正確に把握している。
だから「タケルがそうあって欲しいと思う『本当の兄ミノル』」を演じたのだ。
ミノルがタケルを評して「初めから人のことを疑って、最後まで一度も信じたりしない」と言ったのは正しい。
その「タケルの本性」を正面から指摘すれば、タケルが兄を陥れるような嘘の証言を「真実だ」と自分自身さえ騙して証言することが、ミノルにはわかっていた。
なぜミノルは、タケルが嘘の証言をするように誘導したのか。
「ミノルが智恵子を殺したことが事実だ」と思うことによってのみ、タケルが兄である自分の手を離せること、兄のことを忘れて東京で生きていけることを知っていたからだ。
タケルは証言をする前に「僕は自分の人生を賭けて、元の、僕の兄貴を取り戻す」と言った。
それは実はミノルがしたことだ。ミノルは自分の人生を犠牲にして、弟が自分自身の人生のことのみを考えて生きられるようにしたのだ。
「ゆれる」は「弟を無償で愛する兄」と「兄と手をつなぎたい弟」の兄弟愛の話である
「ゆれる」の中ではミノルとタケルの兄弟の対比として、父親と伯父の関係が出てくる。父親と伯父はお互いを比較し、疎ましく思い、納得できない過去のことを蒸し返して罵り合い、ついには夜中にも関わらず、今夜中に出て行くと啖呵を切る。しかし翌朝には何事もなかったように、朝ごはんに白米を三杯食べている。
こういう兄弟は「手をつなぐことができる」
同じ場所にいるからだ。
だがミノルとタケルは違う。外形的な(社会的な)評価とは反対に、ミノルとタケルとではミノルのほうが圧倒的に人としての格が上であり、器が大きい。
タケルはどうあってもミノルと同じ場所に立つことができない。
唯一、手をつなげるのは、ミノルが渡ることを恐れる吊り橋の上だけだった。
だから、タケルはミノルに吊り橋を渡らせ、大きく揺らしたのだ。智恵子の存在はそのための方法に過ぎない*1
ミノルがなぜこんな弟の理不尽な行動を受け入れるのか、というと「兄だから」という理由しか思いつかない。
こういうのは、きっと理屈じゃないんだろう。
(智恵子には気の毒だが)いい話だった。
「兄能力」を思い出す。
「落下の解剖学」も面白かった。
*1:結局は事故死だから仕方ないが、この人は本当に不憫である。真木よう子、かわいい。