ソ連で活動しているCIAの諜報員が「共産主義を歴史に登場させない」という目的のために、歴史に干渉してエンゲルスを有罪にしようとする。
そんな筋書きに興味を持って、小川哲の「嘘と正典」を読んでみた。
「嘘と正典」で一番面白いと思ったのは、自分が発明した装置を使って共産主義を消滅させようとするソ連の科学者ペトロフの人物像だ。
主人公のホワイトは敵国の人間であるペトロフに共感と好意を持つが、自分も同じようにペトロフに共感と好意を持った。
凄く好きだし、何となく気持ちもわかると思いながら読んでいた。
ペトロフは政治的主張や思想を持っているわけではない。ただ科学者だから「合理性」を重視している。
意味がないとわかっている研究を続けることが耐えられない。周りが意味がないことを意味がないことと認めないことにも耐えられない。
自分にとってもっとも重要なのは、物事が合理的に処理されていくことだった。
ある時、この国に合理性を求めるのは不可能だと悟った。何もかもが……科学までもが……イデオロギーや体制保持という目的のために消費されていた。
真理を追い求めるために科学者になった身として、そんなことは許されないと思った。だから自分は、すべてを失う覚悟で手紙を投函したのだ。
(引用元:「嘘と正典」小川哲 早川書房 P234/太字は引用者)
ペトロフの「合理性への信奉」は徹底している。「自分が得をするなら非合理でも許される」とは思っていない。
実験結果を改ざんして研究費用をかすめ取っていた上司を告発したために降格した時も、その上司が失脚したために昇進したことも、同じように「非合理だ」と憤る。
降格させられたことにも、職場復帰させられたことにも納得していなかった。
それらは科学の成果とは無縁のものだ。
この国では、ものごとが合理的に考えられていない、と失望した。
(引用元:「嘘と正典」小川哲 早川書房 P261/太字は引用者)
その出来事が「自分にとってどういうことか」は関係ない。ひたすら合理性を求める。
ペトロフのいいところは、本人が「合理性を求める」と明言しているように思考が端的なことだ。
「合理性を求める」と言いながら考え方が非合理的というのはよくあるが、ペトロフの思考は簡潔で明解である。
「納得のいかなさ」や「失望」をくだくだと語ることなく、ひと言で自分の内心を説明したあとはすぐに別の話に切り替わる。
ペトロフは本腰を入れてメッセージを解読するため、研究所に「体調が悪いので休む」と連絡した。
初めての欠勤だった。
研究から干され、三年間毎日トイレ掃除をしてたころにも、一度として休まなかったというのに。
(引用元:「嘘と正典」小川哲 早川書房 P277/太字は引用者)
ペトロフの性格が一番よく出ていると思ったのは、ここだ。
ペトロフにとっては、合理性よりもイデオロギーが上位にくる場所では、科学者として実験をすることもトイレ掃除をすることも興味も意味も感じられないという点で同じなのだ。
逆らえば失職どころか投獄される社会なので、与えられたことをやるしかない。だがどちらも合理性を追及する内容でないならば、内容自体には興味がない。
「嘘と正典」では、アメリカもペトロフが夢見るような合理性によって物事が判断される国ではない、むしろソ連と同程度に非合理的な論理で動いていることが明らかになっている。
「また『基本計画』ですか」(略)
「魔法の言葉だな。キューバで失敗したのも、ベトナムで失敗したのも、全部『基本計画』だ」
「モスクワに異動してきてから街中を探し回りましたが、そんなものは一切見つかりませんでした」
「答えは簡単だ。『基本計画』など存在しないのだよ」(略)
CIAの上層部のほとんどは、KGBのことを過大評価していた。
「課題に評価」という言葉は、かなり穏便な表現だ。率直に言って、上層部は誇大妄想に取り憑かれている。
(引用元:「嘘と正典」小川哲 早川書房 P227‐P228/太字は引用者)
アメリカ本国のCIA上層部は、KGBが「基本計画」と呼ばれる広大な計画を練っているという陰謀論に取りつかれており、ソ連国内で何か動きがあるとすべて「基本計画」に結び付けて考える。
巨大な「基本計画」の一部かもしれない。
そういう妄想のために、現場にいるホワイトたちがどんなに進言しても何もさせてもらえない。
イデオロギーも社会体制も違うソ連とアメリカは、内実が非合理的だという点では変わりがない。
ペトロフが夢見る「合理性によって物事が判断され科学が重んじられる社会」は、実はどこにも存在しない。
「嘘と正典」の根底には、こういう皮肉な状況が存在する。
それでも「合理性がイデオロギーに支配されることのない社会」を夢見るペトロフと、共産主義に非合理的な憎しみを抱いているホワイトは、歴史に干渉して共産主義の誕生を阻止するために協力する。
マルクス主義の父親はマルクスだが母親はエンゲルスである。マルクス主義誕生においては、実は母親のエンゲルスの役割のほうが大きい。
そう考えた二人は、エンゲルスをマルクスに出会わせないために歴史に干渉してエンゲルスを有罪にしようとする。
話のオチは余り納得がいかなかったけれど、全般的には面白かったので満足だ。
他にはマルクスの人物像を表すエピソードが面白かった。
「もちろん、思想だけで共産主義国家は誕生しません。革命には『活動』が必要なんです。二人は組織の中で革命のために奔走しますが、そこで大きな問題点が浮かび上がってきます」
「どんな?」
「マルクスそのものです。マルクスは天才でしたが、気難しい人間でした。気に食わない人間がいると徹底的に排除しようとしました。仲間内に数多く敵を作り、組織から疎まれていきます。
それに加えて、マルクスには生活力もありませんでした。常にお金に困っていた上に浪費癖があり、借金ばかりしていました。そんなマルクスを支えていたのがエンゲルスだったのです(略)
僕が好きなエピソードがひとつあります。一八六三年、エンゲルスと二十年間連れ添ったメアリー・バーンズという女性がなくなりました(略)
エンゲルスは絶望の中、そのことをマルクスに手紙で報告しました。その手紙に対してマルクスはなんて返事をしたと思いますか?」
「想像もつかないね」
「そんなことより金をくれ、ですよ(後略)」
(引用元:「嘘と正典」小川哲 早川書房 P252‐P253/太字は引用者)
天才とは天災だなと言いたくなるようなエピソードだ。
「気難しくて気に食わない人間を徹底的に攻撃する。生活力がなくて浪費癖があって借金が多かった」
というところは驚くくらいドストエフスキーに似ている。
だがドストエフスキーは家族に対する情愛は深かったらしいが、マルクスは自分を献身的に支援にしてくれるエンゲルスに対してさえ配慮も遠慮も示さない。
「嘘と正典」は短編集であり、表題作「嘘と正典」以外にも五作短編が載っている。
音楽を通貨とする島で、主人公が自分の父親が作った曲のルーツを探し求める「ムジカ・ムンダーナ」が一番面白かった。
小川哲の書く話は、根底に「人と人は通じ合わないもの」という考えがあるように感じられそこが自分の感覚に凄く合う。
「ムジカ・ムンダーナ」も、オチが「一般的にはこうなるのでは」と思うようにならなかったところが良かった。
改めて資本論を読み直すと(賛否はともかく)マルクスは資本主義社会の物の見方の枠組みをすべて転倒して、労働者主観の経済の見方を組みなおそうとしたことがわかる。そういうものだという頭で思考の枠組みを「第一章 商品」の段階でトレースしてから読むとかなり面白い。
という内容の面白さとは別に、「マルクスの性格」という観点で見てみると、脚注で気に食わない考えや人間をクソぼろにこき下ろしている言い方をしているところが目を引く。
J・ミルの場合、経済学者流弁護論の方法には二つの特徴がある(略)
これらの生産様式に共通する抽象的な商品流通のカテゴリーを知るだけでは、諸種の生活様式の種差が何であるかはまるでわからないし、だからそれらについて判断を下すこともできない。
初歩的な決まり文句をもってこれほどもったいぶった言動がまかり通るのは、経済学だけであり、その他の学問ではありえない。
たとえばJ・B・セーは、商品が生産物であると知っているからという理由だけで、あつかましくも恐慌について有罪判決を下そうとしている。
(引用元:「マルクス・コレクション4 資本論」カール・マルクス/今村仁司・三島憲一・鈴木直訳 筑摩書房 P171-P172/太字は引用者)
ジョン・ステュアート・ミル氏は、彼の得意折衷主義哲学をもって、彼の父J・ミルの見解と同時にその反対の見解も包摂しようとする。
彼の概説書『経済学原理の本分』と、彼が現代のアダム・スミスだと自称している序文(初版)を比較してみれば、この男の素朴なことと、この男を信じきってアダム・スミスのようだと買いかぶっている公衆の素朴さと、どちらのほうに驚いていいのかわからないくらいである(略)
経済学の領域におけるJ・ミル氏の包括的でもなければ内容豊かでもない独創的研究なるものは、一八四四年に現れた彼の論文『経済学における若干の未決問題』なかに勢ぞろいして見られる。
(引用元:「マルクス・コレクション4 資本論」カール・マルクス/今村仁司・三島憲一・鈴木直訳 筑摩書房 P185/太字は引用者)
この調子で話していたらそれは敵も増えるだろう。
読んでいるぶんには面白いが、近くにいたら堪らない人だったのかな。